再生への旅

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zoom RSS 今日の羊頭狗肉・貪すれは貧す

<<   作成日時 : 2014/02/03 16:11   >>

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冷えまさる風に晒して霰餅 玉宗

貧すれば貪す、という言葉があるが、仏道的には貪すれば貧すると言いたい。

施したくてもものがなければ施しようがない。どうしてものがなくなったのか?おそらくそれは貪って生きてきたからだという内省が仏道にはある。「布施というは貪らざるなり」という道元禅師のお諭しもある。
施す心が足りなかった故の今の貧しさ。そんなことを言うと、そうじゃない。我々が貧しいのは搾取社会の負の遺産であるといった糾弾に晒されるかもしれない。不平等な社会を甘受せよという「知足の法」を説く仏道とは実にけしからん現実逃避である。といったものである。

仏道だって単に貧しくてよいとは勧めてはいなかろう。
「貧」とは何か?存在の条件、それは「もの」だけではない。「こころ」という目に見えない領域と切っても切れない一如であるということ。心物一如。貪るという心の貧しさがものを貧しくすることもあろう。ものの貧しさが貪りのこころを増長する事もあろう。ものの豊かさが貪りを増長する事もあろう。施すというこころの豊かさがものそのものを豊かにすることもあろう。施したものがこころを豊かにすることもあろう。施すというこころがこころを豊かにすることもあろう。ものがものを豊かにし、ものがこころを豊かにし、こころが心を豊かにし、こころがものを豊かにし、こころがものを貧しくすることもあろう。

当に曼荼羅模様のごとく私の見聞覚知する世界とは社会的不平等を云々する以前以後の、すべて自己の今の様子である。要するに、「社会」が関わろうが関わるまいが、わがいのちを私自身がどう頂いて生きるのかといった絶対的な領域、地平の話、脚下照顧の一大事なのである。見方を変えれば実に社会的には非生産的な話でもあろう。本質的にソーシャルではなく、パーソナルに馴染みやすい領域だ。自己が救われなくてどうして他者を救う方便が立てれるだろうかといった試行錯誤がそこにはある。こころ貧しい者こそ神に近いといった逆説がそこにある。反作用の可能性がある。社会へのアプローチの仕方がある。良心がある。貧者の一灯がある。施しがある。

憚りながらも、且つ誇りも持って無用の用たるを自認する所以である。


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「節分」

寒念仏山を礼して終はりけり

春を呼ぶ鬼になつてはくれぬかと

戯れに母の背中へ福は内

あたたかき闇夜へ豆を撒きにけり

霰餅鐘搗き堂に晒しあり

青空を恋して冬の菫かな

滑子採り尻を濡らして戻りけり

先生が水仙を捻じ曲げてゐる

葱抱いてをれば気のすむ妻なりし

雪解けて岩戸のやうな母がゐて



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