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zoom RSS 出家者のアイデンティティー・その2「出家と在家」

<<   作成日時 : 2014/02/09 19:02   >>

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人生のこんなところに蕗の薹 玉宗

昨日の続きである。同じく下田氏の以下のような発言を一般の方はどのように思われるだろうか。

「明治以降の日本社会は、一般社会とは異なる領域の存在を認めず、僧侶はそれぞれの家庭で育成していくべきだ、社会は手を引くという姿勢に変わりました。いずれの仏教世界も直面したことのない課題に日本の仏教だけは立ち向かっているのです。だからこそ、この事実を受け止め直し、そこに立ち直して、改めて「在家の中からの出家」というテーマに向かっていくべき時だと思います。親子を超えて師弟であることが、いかにすれば可能となるか、在家と同様の生活形態を持ちながら、改めて出家者として、社会の原理を超えて社会と向き合う姿勢を確立し得るか、そうした教育の場をいかにして構築しえるか、それを教団がどう支援できるのか、そこに目を向けていくべきだと思います。」

「明治以降の日本社会云々」は、明治の廃仏毀釈、神仏分離令、「肉食妻帯勝手たるべし」という国の突き放し政策などのことを言っているのだろう。肉食妻帯に関して言えば「勝手たるべし」なのであるから、各自の判断、自主性に委ねられたと見るべきである。宗門は現在「肉食妻帯」を禁じてはいない大乗仏教の路線にあるというのが建前である。
ところで、宗教界にも在家社会にも「妻帯している僧侶は出家者ではない」といった指摘、批判がある。今の日本にあるのは「在家仏教」であり、「出家仏教」というのは有り得ないというもの。

「出家」とは何か?

お釈迦様は生まれたときから独身ではなかった。王子として生まれ、妻帯し、そして「王宮」を出られた。そして「サンガ」と呼ばれる「修行者の集団」へ入ったのである。そのような「一般社会とは違った領域の存在を受け入れる文化」があったと言う事だ。出家者の存在を否定しない社会。

「出家、在家に拘るのはおかしい」
そうだろうか?人間社会は味噌糞一緒で元も子もなくなるということもあるのではないか。忘れてほしくないのは、「自己を超える」という人間性、それは「在家仏教」でもまた避けて通れない人生の本質に関わる問題であるということだ。
人間は環境の動物でもある。人間の自立とは本人が思い込んでいる以上に他律的である。言い換えるならば、煩悩や迷いから脱する手立て、方便、文化もまた、そのような「場」への検証があってしかるべきだと言う事。というより、そんな風に人間社会は現実の山河を歩んでいる。「出家社会」もまたそのような「一つの文化」なのではないか。

お釈迦さまは何故「家を出た」のか?何度も言うが、それは、欲望や苦悩や執着を越えようとしたということだ。「家」に止まるということは「煩悩に止まる」ということなのか?少なくともお釈迦様にとってはそうだったのだ。それでは、現代の肉食妻帯し「お寺」という「家」に止まっているお坊さんは煩悩に留まりながら「煩悩を越えようとしているのか、或いは煩悩がないのか、或いは煩悩を超えてしまったのか、一体何ものということになるのか?日本には「出家」を受け入れる文化がなくなったのではなく、「出家」という文化を失くしたのは僧侶自身ではなかったのか?「肉食妻帯勝手たるべし」とは「行のあるなし勝手たるべし」といったことになってはいないのか?

そんな在家の声が聞こえて来る。

「出家」とは何か?「在家」とは何か?

(この記事続く)

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「出歩く」

うつらうつらと雪解しづくの音の中

東風吹くと父が沖へと出たがりぬ

如月や生乾きなる空の色

夕東風や干物のやうな足の裏

へうへうと二月の風を出て歩く

恋猫の出払つてゐる港町

空腹の切なさに似て春の夢

恋猫の爪を煎じてみたいとも

出て歩く尻の軽さや梅の花

ポケツトに温めてゐる春の闇







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