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zoom RSS 出家者のアイデンティティー・その3「出家という生きるかたち」

<<   作成日時 : 2014/02/10 19:44   >>

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ものぐさの屋根に雪積む涅槃かな 玉宗

出家者のアイデンティティー」シリーズ記事をFBの方へUPしたら、知人でもある女史から誠意あるコメントを戴いたので大いに皆さんの参考になると思われる。そのやりとりを掲載したい。女史は熱心な真宗門徒であるようだ。以下はそのやりとりであるが、多少本意を損なわない程度に補筆、削除をしている。


「わたしは真宗門徒なので、その立場からしかものを言えませんが、「寺庭」なるものの存在をみとめるかぎり、それは「出家仏教」ではないとおもいます。お釈迦さまがめざされたのは、ひとつには「王家」という遺伝子からの離脱ではないでしょうか。「子⇔親」という切っても切れないものを相対化することこそ、出家だとおもいます。

親鸞は出家などじぶんにはできないと思われた。だから非僧非俗を徹されたのでしょう。だから祈祷も先祖供養もされませんでした。ただ自分の救いを求められた。もちろん私はその宗の教えを信じる先祖の「遺伝子」のなかにいるわけです。でもいったん親鸞によって相対化された「遺伝子」は、ほかの宗の方よりも、たぶん軽く越えていけるのだとおもいます。

わたしに理解できないのは、なぜ出家仏教を選ばれた方が「寺庭」というものをつくり、「お寺の子息」という存在を次々と生み出しているのかということです。玉宗さんの心からのおもいをお聞きしていきたいです。」



市堀 「<親鸞は出家などじぶんにはできないと思われた。だから非僧非俗を徹されたのでしょう。だから祈祷も先祖供養もされませんでした。>

この点に関しては論理的に当たっていません。「祈祷や先祖供養」は出家仏教特有のものではないでしょう。現代のどの宗派でも、少なくとも葬式や先祖供養はしているのが現状では?

<わたしに理解できないのは、なぜ出家仏教を選ばれた方が「寺庭」というものをつくり、「お寺の子息」という存在を次々と生み出しているのかということです。>

お釈迦様は決して「出家仏教」を選ばれたのではないでしょう。「出家」を望まれたのです。親鸞も当初はそうだったのではありませんか。そちらの言葉を借りるなら「私に分からないのは何故出家された親鸞が在家仏教を立ちあげたかという事です。」
教祖になるつもりはなかった親鸞、弟子を持つつもりもなかった筈の親鸞。非僧非俗ということも、それは親鸞一人の宗教的良心からの発露であったのではないでしょうか。親鸞は出家在家に拘る愚かさを身を以って実践されたのだと私は思っています。
私は確かに出家を選択しました。寺族も持っています。それは在家とは一線を画すものだと言う矜持を持っています。仏様の方を向いて生きていこうと言う志をもっている同志です。欲望を超えた世界に生きようとする願いに生きているつもりです。在家と寺族は似て非なる者です。檀家も又同志であると言うのが理想です。同志でなければ「縁なき衆生」という他にありません。

確かに、かたちに拘るお愚かさがあります。同じくかたちを無にする愚かさもありましょう。私が二流三流の出家者であることを認めるのに吝かではありませんが、曲がりなりにも寺族と共に仏の方を向いて生きていこうとしていることを否定する事は出来ないのです。人の数だけ救いの窓口があって然るべき、というより、現実はその様に人は神仏に寄り添い、且つ、神仏又人に寄り添っているのではないでしょうか。
自派以外は受け入れられないかの如き排斥的な雰囲気が気になります。忌憚なく述べました。是以上でもなく、以下でもありません。」



「わたしは自派以外みとめていないつもりは(あくまでつもりですが)ありません。わたしの尊敬するご出家に禅宗のかたがありますが、その方は家族をもたれていません。お寺はお弟子にひきつがれました。そういうことこそ、本来の出家仏教だとおもいます。
また親鸞さんは、まず出家して比叡山にはいられたことはたしかです。でも、その山をおりられた。それは「出家」しつくすことが自分にはできないという思いからでしょう。

お寺と檀家(とは真宗は申しませんが)が一体であるというのは、当然のことです。お寺も門信徒も仏の前のサンガ、同じき御同朋ですから。出家しても救われない、在家でいても救われないわたし。だからただ仏の前にひれ伏すのだと、真宗門徒である私はおもっております。
ただ、もし出家するなら、ほんとうに形の上で出家しつくしていただきたいです。それができないなら、真宗的生き方という選択肢があるとおもうのです。またそれを選ばないで、禅宗で生きるなら、お寺を守るのでなく、檀家になるという生き方もあるとおもうのです。

そのところを、禅や天台のお坊さんで、出家してから跡継ぎとして、こどもをもたれる方は、どうおもっておられるのか、ぜひお聞きしたいです。ここで、コメントでいただくのでなく、続きのブログを期待しています。(と、いう意味で、上のコメントも書きました)

追伸。真宗のお葬式や年忌法要は、「供養」や「祈祷」ではありませんよ。亡き方をご縁として、佛の前に集う法要です。その点だけはお間違えなく、よろしくお願いいたします。」



市堀 「まず、<真宗のお葬式や年忌法要は、「供養」や「祈祷」ではありませんよ。亡き方をご縁として、佛の前に集う法要です。>

当に禅宗に於いても法事とはそのようなものであることを御認識ください。何か得体のしれない世界を演出しているのではありません。死者や他者との出会いであり、もっと云えば自己との出会い、自己を救う一つの出会い、出会いの場であると言っていいでしょう。それは非僧非俗云々とは別の話しであると思います。

<出家するなら、ほんとうに形の上で出家しつくしていただきたいです。それができないなら、真宗的生き方という選択肢があるとおもうのです。またそれを選ばないで、禅宗で生きるなら、お寺を守るのでなく、檀家になるという生き方もあるとおもうのです。>

そちらの切なる希望なのでしょうが、この辺の事は私見を述べたつもりです。もう一度ブログを読んでみてください。基本的に「出家者は妻帯してはならない」という立場のようですが、それはなぜでしょうか?本質的なお答えを頂いていません。

私は出家者と雖も家族を持つことを悪だとは思っていません。
家族だけではありませんが、人間社会に生れる性欲、金銭欲、名誉欲、等々欲望とは様々に手を変え品を変え立ち現われるものです。欲望も又生きる力、いのちのあるべき姿です。お釈迦様も親鸞様も道元様も、欲望が悪だとは言っていないのでは?欲望に振り回され、執着の煩悩世界に輪廻する事が問題なのではないでしょうか。人間は極端に偏りがちです。欲望の主人公はあくまで自己であり、よく欲望を調え、あるべき、ありのままの道「中道」を歩むことをこそお祖師様は諭され、実践されたのではないでしょうか。わたし的には禅宗、自力、他力、出家、在家、等々、名目などどうでもいいのです。


<わたしの尊敬するご出家に禅宗のかたがありますが、その方は家族をもたれていません。お寺はお弟子にひきつがれました。そういうことこそ、本来の出家仏教だとおもいます。>

このような見解は実に御目出度いのではないでしょうか?継ぐべきは「法」であり、実子、弟子であるないはにの次です。妻帯していないお坊さんが聖であり清であるとの思い込みは如何なものでしょう。」

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忌憚のない、するどい指摘をされていると思う。私も正直に応えているつもりではあるが、中々に手ごわい。

私は以前から浄土真宗と道元禅の究極は相重なる領域があると思っている。「わが身もわが心もほとけの方へ投げ入れる」といった言葉にも、「身心脱落」といった宗門の宗旨にも、自己の見解や我執をうち捨てて、仏の世界、実相世界、ありのままの世界へ解放する一大事を言っている筈である。阿弥陀仏の世界も又、帰命無量寿如来という言わば人間的欲望を終えたいのちの世界への帰依、同一化を目指しているのではないのか。
たが、どういう訳か、真宗のお坊さんも門徒さんも「自力宗」という看板にとらわれ過ぎているようで、禅宗が如何にもレベルの低い宗教か、或いは自己満足に過ぎない程度のものかの如くに対しているのが気にかかる。

自力と言えば「南無阿弥陀仏」と唱えることも自力ではないか。他力と言えば朝晩飯を喰い糞をするのも他力であろう。「南無阿弥陀仏」と唱えることのできるその口業で人を傷つけることもできる人間である。宗旨の勝ち負けなど論外だが、宗旨の真偽を知るにはそれぞれの為している「行」を以って知るしかないのも実際であろう。どこまで身と心をうち捨てているかだ。そしてそれは「自得の領域」「冷暖自知の世界」でもある。だからややこしいのだが、だからこそそうでなければならないとも言える。宗教とはそういうものだろう。親子関係の相対化など取るに足りない事だ。血肉の情を超えたいのちそれぞれの絶対的価値に目覚めることこそが仏弟子の本懐であり、人間の本懐であり、在家の本懐であり、いのちそのものの本懐であるに違いない。

それこそが私の信仰である。それこそが私の生きるかたちの基礎である。詭弁めくが、「出家者のアイデンティティー」という言挙げも「出家といういきるかたち」を否定し、或いは肯定する理由がないからこそのもの言いだ。だれも私に代って生きても死んでもくれない。このいのちの絶対性を受け入れるのに自力とか他力とか出家とか在家とか、そんな理屈は畢竟なんの役にも立たないものだと思っている。

お坊さんとして人様の役に立ちたいとは思っているが、それとても私自身が私自身にけりがついてのはなしであろうし、実際のところ分に応じて口を漱がせていただいているに違いないのだ。


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「音」

ふきのたうたのしい音のする方へ

春の水あかるき音を立てながら

用に立つ残る寒さの只中を

春寒く音なき夢に目覚めては

湯気立てゝ尿する梅の寒さかな

春禽にまだ開け切らぬ空の色

死は生を待ち草臥れて春立ちぬ

雛飾る妻が一人でゐたがりぬ

丹田に潜むうやむや梅三分

雪隠に残る寒さもおもてなし

子供らの出払つてゐる春炬燵







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