再生への旅

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zoom RSS 雪割草という花

<<   作成日時 : 2014/03/23 06:33   >>

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生きてゐるここが最果て洲浜草 玉宗


彼岸となり能登も日中は特に比較的暖かい日が続くようになった。
桜の開花は例年4月上旬でまだ間があるが、蕾が目に付く。日当たりのよいところでは草の芽、木の芽があちこちに出始めている。能登の三月は冬の終わりを実感し「ものの芽月」と言ってもいい風景が広がる。

門前町ではこの連休に併せて「雪割草祭り」が總持寺通り商店街を会場にして催されている。
門前町皆月地区の猿山岬には町花ともなっている雪割草の群生地がある。監視員が季節になると常駐しているようだ。入山料も払わなければならない。今では立派な観光地でもある。それもこれも自生している雪割草保護のための政策であろう。観光地化した自然遺産を荒廃の危機にさらす訳にもいくまい。

自生している雪割草を観察して分かった事は、結構自然環境の厳しいところに生えているということである。猿山岬は日本海を目の前にそそり立つ断崖である。風の強さは半端ない。断崖にへばり付いて咲いているとも見える。そこは必然的に水はけのよさ、半日陰半日向の条件が揃っている。まさに環境に適応している花なのである。というより、環境が支えている花なのかもしれないと思ったりする。

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その雪割草は私が能登に住むようになって初めて知った花でもあり、平成十九年三月二十五日能登半島地震に被災して更に思い出深い花となっている。
興禅寺復興の過程で境内に三百株ほど雪割草を植えてみたのだ。手入れもしなかった私に落度があるのだが、現在一割にも満たない株数である。興味本位で花のいのちを粗末にしてしまったという忸怩たる思いがある。
それにつけて思い出すのは嘗て評論の神様小林秀雄が語った次の言葉である。

「美しい花がある。花の美しさというようなものはない」

花は私の為に咲いているのではない。無心に咲いている花なればこその美しさであり、人のこころを打つのである。小林が花の美しさというものはないと言った時、それは理屈を越えている現実、その美へのアプローチの仕方を諭しているのであろう。現実を尊重すると口にしながら人は現実の奴隷に成り下がる。人も又、花の美しさに巡り合いたいのならば、そして、ありのままの現実を受け入れる用意があるのなら、自らの内に無心なるものを持ち合わせていなければなるまい。

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雪割草が能登半島地震に被災したわが人生を象徴する花であるということは、花を人生と置き換えてみた時、被災した体験が私にとって無心なのものであり、縁そのものであったということなのである。生きるとは縁を生きることである。縁という現実は本来的に選べないものだ。だからこそ人生の宝なのであり、縁をどう活かすことができるかが人生の意義であり、醍醐味であるということ。無心に生きる。それが私の現実への寄り添い方でなければならない。

お祭り騒ぎも悪くはないが、最果ての地にひっそりと咲く花へ思いを寄せたいと強く思っている。人として生かされている日々の暮らし、その花のいのちにも似た掛け替えのなさ、儚さ、美しさ、逞しさを忘れない人間でありたい。

雪割草はわたしにとってそのような花であるし、これからもそのような花であってほしいと願っている。


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「出て歩く」

薺咲く風へうへうと納税期

聞く耳を持たぬとばかり蓬摘む

春休み乙女さびたる頬つぺたの

梢吹く風の色にも春めきぬ

古草に坐れば見ゆる妻の尻

休日の土手を登れば桜東風

かんばせに朝の光りや木瓜の花

春風や懲りずに生きていくつもり

犬ふぐり徒食の影と思ひけり

おにぎりは○△□春の山

白山を嶺に千切れて春の雲

つくしんぼ風を遮るものもなし






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