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zoom RSS 今日の天の邪鬼・その2「協会を退くのこころ」

<<   作成日時 : 2014/04/12 06:28   >>

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裏に咲くわが家の桜ひとり占め 玉宗

一般社会では勿論の事、目的を同じくして人の集まる所には「協会」と名のつくものが自然発生的に出来るもののようである。文藝の世界に於いても同様で、私のような田舎俳人でも、「俳人協会」「県俳文学協会」の二つに会員としてその名簿を連ねていた。「いた」と書いたように過去形である。つい先日、「退会」の旨を本人自身の声で届けたばかりなのである。まあ、平の会員だったので、思い留めるようなこともなく、「ああ、そうですか」みたいな感じで難なく退会出来てしまったのには、少なからずつまらない思いが湧いたことである。

俳句文芸に手を染めだして間もなく、結社の方から協会への入会推薦をしていただようで、それ以来の会員であった。文藝とは私一人の感性の世界に拘る作業だと受け止めていたので、そのような楽屋裏を持っている人間が集まり、垣根を作り、気勢を上げるというのも、なんだか変な感じがしたものである。傷を舐め合うような生ぬるさ、文藝とは違う人間の生々しさ、権威主義の間抜けさ感が拭いきれぬまま今日まで遠くから様子をみてきた。

と云えば、如何にも高踏的に聞こえるだろうが、そこはそれ天の邪鬼の詭弁。
過去に二度、その協会の権威を嵩に着ようと目論んだことがある。それは外ならない句集への協会賞への挑戦であった。私には第一句集『雪安居』、第二句集『面目』ともに俳人協会新人賞に手が届かなかった過去がある。
『雪安居』は私自身にそのような欲は少なかったのであるが、結構推薦して下さった著名な俳人もあったにはあった。前評判が良かっただけに本人もその気になったのだが、落選となり、その分少なからず悔しい思いもした。数年後に満を持して第二句集『面目』を出した。然し、本人の自信とは裏腹に歯牙にも掛らなかったという経緯がある。共に五十歳までのタイムリミットがある協会賞。もう挑戦することも叶わない。夫人は本賞を狙えば?と唆すのであるが、本人にはもうその気力も無駄金を散財するつもりもない。

いづれにしても作家個人の力量がものを言う世界であり、なればこその文藝である。権威の嵩を着るにもそれは例外ではないのだろう。受賞にも運、不運があると言ったところで、それは何の慰めにもならないし、慰めてどうなるような筋合いのものでもない。俳壇もグローバル社会の潮流の中にいる。その理念というものも(有季定型遵守とか、なんだとか)、あるにはあるようであるが、それはないようでないような代物でもあるのが実感である。表現者の端くれである私だって、自分の力量、身のほど、客観性を見定めることに吝かではない。だからこその退会である。
協会や組織にいて学び、恩恵を蒙ったこともあろうに、なんと恩知らずな、と思われる方もいるだろうが、そこはそれ、天の邪鬼には「お互い様だろう」といった開き直りがある。要するに理念的にも組織人的にも金銭的にも心情的にも地理的にも協会人であることの意味も義理もない。そもそもが協会に於いては塵のような存在である。

田舎者の怖いもの見たさに魅かれ、或いは棚から牡丹餅的な余慶を期待し、帰るに帰れなかった、かくれんぼの鬼のような、天の邪鬼。それがこれまで協会に止まっていた私の正体である。協会の垣根を越えて、協会の甘えを越えて、協会の眼隠しを越えて、協会の偶像を越えて、協会の権威を越えて、協会の思考停止を越えて、協会の不感症を越えて、協会の十把一絡げを越えて、もういちど私一人の世界を私ひとりの力で歩いてみたい。初心に帰りたかった私がいたし、そうでなければならないと遅まきながら気づいた訳。これも私にとっては終活という大義の一環なのである。まあ、負け犬の遠吠えの類といった見方もあるが・・・。


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「春の霜」

裏富士がすぐそこにある春の霜

鎧なす母の腰巻春の霜

ブランコはだれのものでもなく陽炎

柳の芽風が素通りしてゆきぬ

菜の花のひとかたまりの自爆かな

地球から振り落とされて舞ふ燕

雲とゆく春の川べり追ひかけて

風はまだ頬に冷たきさくらかな

蓮翹の枝込み合うてなし崩し

鳥声に囃されてゐてあたたかし

人の世に深入りしては軒燕

春の泥乾く大陸移動説

初蝶やそろそろ尻も乾くころ





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「協会の垣根を越えて、協会の甘えを越えて、協会の眼隠しを越えて、協会の偶像を越えて、協会の権威を越えて、協会の思考停止を越えて、協会の不感症を越えて、協会の十把一絡げを越えて、もういちど私一人の世界を私ひとりの力で歩いてみたい。初心に帰りたかった私がいた」
天の天の邪鬼さまが、俗世での自己対峙ではなく天の真摯な自己対峙を始められるために、仰せの「協会」は存在したのだろうと思われます。ご活躍を期します。
Ms gekkouinn
2014/04/13 01:42

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