再生への旅

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zoom RSS 誰にも迷惑を掛けずに生きる?!

<<   作成日時 : 2014/04/14 08:04   >>

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騙すなら桃の花咲く空の下 玉宗

先日、妻や子供を置いて家を出てだった父親が亡くなり、遺された子供たちが喪主となって葬儀をあげた。妻は離婚同然であったらしく葬儀に顔を出さなかった。出席者の間からは死んだ父親の生前の愚行を論う声が聞こえた。好き勝手に生きて迷惑のかけ放題の人生だったということらしい。それでも子供たちには父親であるには違いなく、それなりに丁寧な葬儀をしていたように見えた。人の一生は死を以ってその意義が完成する。生きている間は本人にも廻りの者にとっても、人間とはどうしようもない代物であることが多い。

ところで、老後を子供や夫、或いは妻の世話になりたくないという現代人の心理がある。
他人は勿論、親族に対してでも、誰にも迷惑・面倒を掛けたくないという遠慮をよく耳にする。。然し、面倒をかけてないで生きてゆくことなど出来るのだろうか?産まれてきてからこの方、延べ人数にして膨大な面倒、迷惑をかけてきているにちがいない。それを忘れているらしい。或いは忘れたふりをしているのか。解りきったことのために却っておぞましくなっているのか。面倒、迷惑と云えば語弊があるかもしれないが、要するに大なり小なり支え合い、心使いをして生きているのが人間社会の実際であろう。

生まれること、生きること、老いること、死んでゆこと、それら命の有り様は綺麗ごとだけでは済まされないのが現実である。人生は清濁合わせ呑んでなんぼのものではないのか。確かに迷惑や面倒にもいろいろある。人様を傷つけたりして、生き死にに関わるようなことは厳に慎まなければならないし、家族を持ったからには養っていくのが親の責任でもある。そうではあるが、人の世をごく普通に生きている現実はお互いに面倒を掛けあっているのが真相ではないか。見方を変えればわがままを少しづつ認め合い、許し合うことによって成り立っていく現実がある。

死んでゆくときも、死んだ後も、様々な迷惑や面倒をかけるに違いないのだし、人間の自立とはそんなお互いの迷惑や面倒の中で成し遂げられているものではなかろうか?迷惑を掛けられっぱなしの人生というのもありそうで、そうそうあるものではない。認知症になっていたとしても「自立している命」なのであり、それを支える側もまた支えることによって自立した自己の人生を創り上げている。

少子高齢化の加速で、世話になりたくても親族がいないという現代的事情もあろうが、今はそれを云々しているのではない。「私は今、誰にも面倒や世話をかけても受けてもいない。まして迷惑は。だから老後も、死んでゆくときも誰の面倒や世話を受けたくないし、まして迷惑をかけたくもない。」それはもしかしたら、現代人の穿ち過ぎた妄想ではないのか、ということを感じるのだ。

効率や能率や損得や合理性だけが人間の条件になり下がってしまった現代。無駄に、無為に生きることが許されない現代。然し、本来、人生とは切っても切り離せないのが「生老病死」である。面倒や世話を掛けあうのも今生の縁である。生まれて独り立ちするまで下の世話からなにまで、面倒を掛けきた今の私である。老後の数年認知症になって世話になったからといって恐縮することもなかろう。生まれてきたときの命だけが尊いのではない。元気でいる命だけが尊いのではない。老いている命も、痴呆の命も、悪人でいる命も、善人でいる命も、病んでいる命も、死んでゆく命も同じように尊い。

命や人生の尊さに思いを致すことができるならば、わがまま勝手のし放題など出来る筈もない。ものの見方が本末転倒しているのではないか。そこを忘れないようにしたいものだと、父親に捨てられながらも葬儀を勤めていた子供たちをみて感じたことである。


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「啄木忌」

家を出て家をおもへり揚雲雀

つばくろにおちょくられてはゐるやうな

波が消す砂の足跡啄木忌

春をゆく雲に遥かなこころざし

木瓜咲くや日だまりにゐて疎まるゝ

母さんの骨を埋めてあたたかし

後産のごとく脱ぎ捨て花衣

菜の花やうろ覚えなる前の生

まだ風の荒びを知らぬ蓬摘む

仄々と黄泉路へ春の泥乾き



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