再生への旅

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zoom RSS 父という不在

<<   作成日時 : 2014/04/18 18:53   >>

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木蓮の空に翳するものもなし 玉宗


「さまざまだなあ・・・」

そう呟いた父の顔を私は半世紀近い時が過ぎた今でも忘れないでいる。
それは折に触れて父の口を吐いて出てきた。呆れたという風でもあり、感嘆している風でもあり、虚しいという風でもあり、どこか得体の知れない響きがあった。それは好きなお酒を呑んで酔いの勢いを借りたときだけではなく、素面の折りにもしばしば耳にした。子供心にも不思議な響きを持った言葉だった。子供ながらに大人とは子供の窺い知れない世界を見ているのだなあと感じたものである。思えば、子供という可能性は大人の呟きやため息に敏感に反応し、聞き洩らさないものなのだ。

人の噂話を聞き及んだときや人間模様に思いを致しているようなとき、又は、テレビでの事件事故の報道にふれたときなどに思わず零れでる、そんな言葉だった。<呟き>という、救いようのない吐息のような言葉があることを初めて知った。あの正体はいったい何であったのか、大人になってからもずっと気になっていた。

「さまざまだな・・・」

苦笑とも、羨望とも、恥辱とも、諦念とも、呪詛とも聞こえたその呟きを私は忘れられなかった。折に触れて思い出していた。父の語ることのなかった人生への無念さが、思わず口を突いて飛び出したかのようで、次第に同情が湧きもしたし、見てはならない父の秘密を見てしまったようなやるせなさがあった。
父にだって誰にも語ることのなかった夢があったのに違いない。呟きは叶うことのなかった父の夢のなせる業であったか。大人という人生の沖の寂しい風景を前にしてを私には父を愛する以外にどうすることも出来なかった。

「さまざまだな・・・」

血は争えないもので私も最近ことあるごとにそう呟いている。
この歳になって呟きの意味するところが私なりに得心できるようになった。そこには叶わざる夢の幻影と人生への諦念、人間社会の有為転変、有象無象への哀れさのようなものが蠢いている。生きている限り人間とはどうしようもない代物だ。私は私を越えることができなかった。私は私を生きることしかできなかった。それはなげやりにも似ているが、自己のいのちを慈しむ様にも見えて来る。いづれにしても、父の呟きと共に、人間社会へそのような眼差しを向けている自分がいる。

人生に光りと影があることを教えてくれた両親よ。母というなくてはならない存在があるなら、父というなくてはならない不在が私にはある。わが倅もそんな父親の一挙手一投足に聞くともなく耳を澄まし、見るともなく遠くより見つめていることであろう。



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「旅」

麦青む旅に汚れしまなざしに

木蓮のこゑを限りや空と咲き

辛夷咲く空また仰ぐ山路かな

比叡より雲流れ来る蓮華草

げんげ田にさざ波寄する淡海かな

ててなしの空へ旅立つしゃぼん玉

咲き満ちて花に翳ある康成忌

ひとひらの花のゆくへも知らざりき

悼みつゝ旅なほつづく落花かな

生きながら死に化粧して小町の忌

能登はいま花屑を田に鋤き込んで




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「花馬酔木」

花馬酔木日の暮れかねて冷えまさり

花見より戻りし妻の胡乱なる

門前をはみ出してゐる苗木市

能登富士へ尻を掲げて薯植うる

かたかごを摘めば雨降る母の郷

霧ごめの風に慄く一花草

おほかたはわが世過ぎたり苗木植う

雨ついて戻る舟ありはまにがな

花海棠乙女さびたる恋の色

わが醜の影に驚く蝌蚪の国


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内 容 ニックネーム/日時
一週間後「花音」(朗読の会)の発表会です。私は今度、「浄瑠璃寺の春」(堀辰雄)を読みます。“この春、僕はまえから一種の憧れを持っていた馬酔木の花を大和路のいたるところで見ることができた”で始まるこの作品はのどかな田園風景や気だるい春の一日を描写したものですが、これまでドラマチックな読み物を得意として?きた私にはちょっと異色でなんだか難しいと感じられるものです。
今回は小さなレストランを会場とした気軽な会ではありますが、練習不足もたたって聞く人の反応がどんなものか気がかりでもあります。
花てぼ
2014/04/19 22:14

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