再生への旅

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zoom RSS 神様との最後の約束

<<   作成日時 : 2014/04/03 19:42   >>

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つばくろやひとり遊びをしてをれば 玉宗

よの中に交らぬとにはあらねどもひとり游びぞ我れはまされる 良寛

近頃、ふと気がつくと、自分がこの世を去るための後始末をしているのではないかと思うことがある。

みるべきものは見し、と海へ身を投げた平安のもののふがいた。勿論そんな勇ましいものではないし、生まれも育ちも片田舎の井の中の蛙のような私である。そうではあるが、正直なところある意味「もういいだろう」みたいなところがある。人の世の(お坊さんの世界も含めて)毀誉褒貶、右顧左眄、有象無象、有為転変、紆余曲折、要するに欲望の世界にほとほと嫌気がさしている様な節がある。

若いころは人生の流れに棹さすどころか、それを逆流させようといった無茶な人生でもあった私である。仏弟子となったことを後悔はしていない、と云えば嘘になるが、今更そのよいうなことを言ってどうなるものでもないし、自分がみじめになるだけである。後悔や絶望といった類の心理というものも愚かな妄想ではある。人は後悔や絶望するにもなにがしかの気力・体力がいるのではないかと云うのが私の経験則だ。生きている限り(つまり、人と生きている限り)絶望したり、後悔したり、失敗したり、成功したり、有頂天になったり、なんともなかったりするのは当たり前だ。今の私の場合は絶望とは些か違う。自然に、ありのままに生きんがための無為願望とでも言おうか。

弟子も独り立ちしようとしているこの場に及んで、逃げ腰と受け取られるかもしれないが、人生は自己創造であるとの認識に大して変化はないのだ。然し、流れのままに生きたいといった脱力感のようなものが年を経るにしたがって増長している事実を否めない。具体的に言えば、それはわが人生に何かを足す作業ではなく、引き返せない現実に、少しづつではあるが、確実に、わが執着の痕跡を消すといった作業でもあり、ちょっとした責任感のようなものを伴っている。この世に生れ落ちた際に、いずれゼロとなるべく交した神様との最後の約束のようなもの、と言ったらどうだろう。それもまた家族に遺す形見のようなものだ。

「他人のために暮らすのはもうたくさんだ。せめて、このわずかな余生を、みずからのために生きようではないか。 (モンテーニュ)」

私の場合、この「みずから」とは仏弟子の面目であることは云うまでもない。


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「旋毛」

鶯が旋毛曲がりであったなら

会計に並び三鬼の忌と思ふ

腰巻は女の鎧桜東風

木の芽吹き空がにぎはひ始めけり

耕しの一部始終を遠くより

おそるおそる春筍の旋毛かな

春の泥地球を少し凹ませて

埒もなき日向に厭いて木瓜の花

つばくろに呼び止めらるゝ筈もなく

けふなどはあたたか過ぎて困るなり

源泉に仁王立ちして花見かな



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「ひとり遊び」

落椿花のかんばせ空を向き

暮れてゆく鐘の向かうに葱坊主

表より裏はさびしや囀りぬ

その影にいつも母ゐる花大根

亀鳴くや母より生まれ母を失ひ

泥の子のお玉杓子の泥煙り

連翹の花込み合へる光りかな

西京の日向に倦きて雪柳

耕すや他人のやうに妻とゐて

パンジーほど国が素直であつたなら






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