再生への旅

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zoom RSS うらゝかさに生きる

<<   作成日時 : 2014/04/08 04:51   >>

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初蝶の飛び出してくる油断あり 玉宗


風は少し冷たいがお寺の桜もほころび始めた。
昨年は鵯に沢山の花芽を啄まれて、初花もひどいもんであったが、今年は今のところいい感じである。満開の桜どきが楽しみ。今年から畑もなくなり、することがない。実に暇なもんである。それにしても、ここにきて空の色にも、海の色にも、山の色にも春の到来を感じる。

「春麗・うららか」という言葉がある。
寒すぎることもなく、暑すぎることもない春のうららかさに、ついついわが身が死を定められた危うき存在であることを忘れてしまう一瞬がある。

能登半島地震が三月二十五日。どちらかと云えば春寒といった日であったが、東日本大震災も同じ三月早春であった。天災は忘れたころにやって来るとは言ったもので、あの時も確かに、能登の長い冬が終わり、本格的な春の陽気へ向かううきうきした気分が私にはあった。
そこへいきなり、ぐらぐら、ドスンときたのである。不意をつかれたというか、油断したくて天災を待っていた訳でもないのだが、私の恣意を越えた現実が音を立ててその姿を現した一瞬だった。

油断と云えば、如何にもこちら側に落ち度があるような物言いではあるが、本来いのちは常に向日性なるもののようで、危険に四六時中晒されたり、不安に慄き続けることには耐えられないのではないか。というより不安感や恐怖感を弛緩することによって地に足を着けて生きて行けるのであろうと思う。それが自然なことだろう。

自然の運行は良くも悪しくも人間の都合を遥かに越えている。そして、そのような自然と一体であるからこその些細な存在でいられるという事実。人間という弱い存在は、その弱さをアリバイとして生き延びてきた様にも見える。そのような人間存在も永遠なるものでない。科学文明という天の星を奪い取ろうとするが如き抜き難い人間の永遠なるものへの迷信がある。自然のままに、ありのままに生きることの幸といったようなことも現代人には呪文のようにしか聞こえていない節がある。

自然から見ればホモ・サピエンスとは生まれるべくして生まれた細胞の意志であろう。そうではあるが、人間は自らが自然界に於いて特等席でも与えられたかの如き妄想の愚かさに終始しようとしている。稀有にして前代未聞の存在は人間だけではない。人は懲りもせず諸行無常の人生から何を学んだだろうかと言いたくなる。

「天災は忘れたころにやって来る」
それは油断せず生きて行けと諭しているだけではなく、天災人災の有為転変を柔軟に、逞しく、そして謙虚に乗り越えて生きていくヒントの一つであると受け取りたい。自然のうららかさ、それは自然の容赦なさ、厳しさと表裏一体のものである。人間とはそのような自然の掛け替えのない一部に過ぎない。

神は自ら死んだのではない。神を殺すも殺さぬも、神と共に生きるも生きないも、人間のこころひとつのあり様なのではないか。


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「日永」

永き日をたまりかねては花笑ふ

天上を大きな風がゆく桜

鳥と生まれしづかに春を争へり

春星の火を獲りにゆく男かな

蓮翹のひかり極まり眩むなり

春闌花のお喋りきりもなく

蒲公英や恥辱の日々もいつか過ぎ

清明や朝飯とめどなく旨し

鳥風や乗り遅れたるはぐれ雲

うつろなる光り漲るさくらかな

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コメント(2件)

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申し訳ありませんが一つだけお教え下さい。

>うつろなる光り漲るさくらかな

この句の「光り」は名詞使いだと思うのですが、なぜおくりがなの「り」が付くのかがわかりません。何か人知れぬ芸術的な意図、などがおありになるのでしょうか?もしよろしければお答えをお願いします。
初学のもの
2014/04/08 14:00
ご指摘ありがとう。意図はありません。単なる間違いです。
(^^)
市堀
2014/04/09 06:21

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