再生への旅

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zoom RSS 今日の詭弁・非思量の命

<<   作成日時 : 2014/05/13 22:07   >>

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山法師深まる空のありにけり 玉宗


子供が大人の説教に対してよく口にする言葉に次のようなものがある。

「意味わかんねえ〜」

それはおそらく、言葉の向う側にあるものが解らないということなのだろう。「想像できない」といっているのだと思う。子供って、結構「意味」を知りたがる。それは大人ほど観念優先で生きていない証拠なのだろう。言葉以前、意味以前、観念以前で命しているっていうところか。大人よりも分別以前の世界と一体で生きている未熟な脳がそこにある。そんなやわらかい土壌へ「分別ある大人」が「食育」と称して「感謝」とか「いのち戴く存在」などと教育する訳だ。

「感謝」「感謝」といきなり周りから云われるまでもなく、子どもは親の生き方を見ていて「感謝の芽」を育てているに違いない。そのような「情緒」は学校教育だけが賄えるものでもなかろうし、「食育」のカリキュラム以前だと私などは捉えている。もっと根本的なものがあるのではないのかな。

本来、お坊さんの専売特許である「命」の話しをするということは、「生きている意味」「わたしは何のために生れて来たのか?」「私が生きている意味は?」といったところから切り込んでいくということであるのが理想だろう。

さて、「生きている私」「生れて来た私」に「意味」や「目的」はあるのかないのか?
「生きている事実」「命の事実」それは「私の意味付け」を越えている。「越えている」とは「そのものである」ということだ。意味付けが悪いと言うのではない。いのちは「無意味」なのではない。「命」に先行して「意味」があるのではないということを言いたい訳だ。例えば、ここにあるコップ。私にとってそこにある「コップ」とは「喉が渇いて水を飲みたい」といった「意欲」に対応する「入れ物」としての「意味」を持つだろう。私の姿勢が関わっているということ。そのような、生きている命の事実がある。それを「わたし」と言ったり、「今」と言ったり、「真実」と言ったりする訳だ。そこまでは子供でも「理解」出来るであろう。

生きる醍醐味はそれから先の話である。「生きている今の命の事実」からどのような「意味のある意味」を引き出せるか。それは偏に私という大人の孤独な作業である。自立して生きると云うこと。大人になるということはそういう屋根裏の作業を繰り返している。屋根裏の窓を開ければ夜空に星雲が煌めいているように、いつまでも無分別で生きて行けない人間の宿命がそこには横たわっている。そこから目を逸らして生きることはなんとも口惜しく勿体ない話ではある。人間もまた分別の脱皮を繰り返し、アップデートし、再生しなければならない。

平たく言えば、生きている意味や目的、それは明らかに、人間一人ひとりが創り出していくものだ。それは曇りなき眼が様々な「縁・関係性」の中で成し遂げられるものであり、そして「生きて行く方向性」ともなるであろう。このような厄介な人間存在のからくりを受け入れることができて初めて、人は自己に拘ることの愚かさを知り、その存在を越えた大いなる者へ身を任せることができるのではなかろうか。

それにしても「分別ある人間という存在」の「意味」はあると云えばあるし、無いと云えばない。矛盾しているが「そのもの」は「そのもの」であることによって意味を獲得する。「ある、ない」といった分別を見事に越えている非思量の命とはそのような地平を展開していると言わざるを得ない。


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「原罪」

おほでまりこでまり風の騒がしく

まう喰へぬ藪の竹の子蹴飛ばしぬ

絶望が山椒魚を眠くする

遺言のごときが滝を見てゐたる

帯を解き終の牡丹の崩れやう

くちなはを原罪として飼ひ馴らし

愚かなる五体昼寝に用立てる

滴れる山の方より呻き声

仏弟子の妙に生々しき素足

西日差す四畳一間の創世記










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