再生への旅

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zoom RSS 仏戒に生きるとはどういうことか?!

<<   作成日時 : 2014/05/27 17:22   >>

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草を引くために出家をしたやうな 玉宗

六月四日から五日間に亘って大本山總持寺祖院に於いて報恩授戒会が行われる。
目と鼻の先にある御本寺の大法要に知らんぷりもできず、骨山ながら末寺として随喜させて戴くことになっている。先日、「両班・応供師・礼讃師」の内配役を頂戴したことである。夫人もご詠歌講員としてお手伝いすると共に戒弟として出席する予定である。祖院では昭和四十年代を最後に授戒が行われてこなかったが、二祖国師の大遠忌と法堂大改修竣工祝を併せての宗門挙げての法恩授戒会となった次第のようである。安居している弟子も未経験の領域で法要準備で忙しい毎日を送っていることであろう。

さて、戒とは何か?

「仏戒とは大地有情同時成道と制止することなり」

戒とは単なる抑制ではない。仏法という命の話しであり、命の根っこからのなりゆきでなければならない。あれをしてはいけない、これをしてはいけない。ああしろ、こうしろ、といった倫理、道徳という人間界隈の次元で済まそうとしても決着できない欲望の始末の仕方がある。根本からの決着を期している人間の智慧がある。

世界と一体であるが故の無私。無私なるが故の一体世界。私とかあなたとかという我他彼此のないところ。執着や拘りのいらないいのちありのままの様子がある。不殺生というもありのままの命には殺生に執着する理由がないのである。不妄語というも一体である命には嘘をつき人を騙す値がないのである。不戯論というも比べられない命には戯論する甲斐がないのである。一事が万事、私の執着を越えたところで生きている今の命の事実がある。その端的に帰る。帰命。この目覚めを授戒とは言うのではないかな。命に箍を嵌めることでも、嵌められることでもない。どこまでもわがいのちの解放、内外放寛への歩みであろう。思えば、人間とはどれほど命を浪費し、無駄にしていることか。執着、無明といった足ることを知らない欲望。そのような欲望が人生の主人公になってはいないか。

私がいてもいなくてもなんともない、なにがあってもなんともない、欲望を越え誤魔化しの利かない、そうであるからこそののびやかないのちの世界。仏弟子とは本来そのような領域に身も心も委ねて生きているもののことである。今回の「授戒会」とは一般檀信徒を対象に、そのような戒の本義に添った仏弟子のまねごとをしようとするものである。まねごとではあるが疎かならない。まねごとと言えばお坊さんの日々も仏道のまねごとの日々である。本居宣長が言っている。「意は似せ易く、姿は似せ難し」と。この本質に在家出家の違いはないであろう。

このような法要を機会に出家者もまた自己の「まねごと」の真偽を点検し、自分が如何ほど仏道の典型足り得ているかを学ばさせて戴くに越したことはなかろう。


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「夏暁」

旅に聞く深山鶯朝を鳴き

死んでゆく星あり夏の暁に

夕風になかば溺るゝ植田かな

野に咲いてひときわ高き夏薊

衣更へて風を纏うてゐたりけり

裾を吹く風かとおもふ花菖蒲

芍薬の花重さうに咲き満ちて

白雲に乗り遅れたる昼寝覚

仄暗き臍に卯の花腐しかな

落ちぶれし如くトマトに齧りつく



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「薫風」

その奥に闇を湛へて緑さし

若葉風そこをどいてと云はむばかり

早苗饗の席へ遠嶺を開け放ち

遠ざかる星あり蕗を煮てる間も

托鉢の米に穀象生まれけり

金魚釣り茶碗に入れてもどりけり

満ち足りし花のかんばせ風薫る

滝の上の空がずり落ちさうでならぬ

戦前のごとく日陰を歩みけり

草を引くほかなし事のなりゆきで

父といふ淋しさ卯浪見てゐたる















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