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zoom RSS 今日の羊頭狗肉「私は実用的ではない?!再考」

<<   作成日時 : 2014/05/02 19:39   >>

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沖つより五月の空が押し寄する 玉宗

以下に述べるようなことはここ数年来の感慨であり、今に始まったことではない。
で、今回も又、「お坊さんと俳人、どちらが実用向きでないか?」といったことが頭をよぎった訳である。私的には「五月病」っていうのでもないのだが、世間が夏に向かって活発に活動しはじめる時季に重なって、自分の存在価値にいやがうえにも気づかされるのである。

「実用」とは「実際に用いること。日常生活などの場で実際に役に立つこと。「―に供する」「―品」」というようなことらしい。世間を概観するに、人の生活にどちらもなくてはならないものである、のようにも見えるし、なくても一向に差し支えない、ようにも見えなくもない。実体生活での家計簿的な面からいえば必要経費とは言えないが、交際費としてどちらもそれなりに社会の需要と供給に応えているだろう。生産的な面から言えば、何も作りだしではいないが、どちらも文化的・宗教的といった目に見えにくい領域に貢献していよう。敢えて「私は実用的ではありません」というのもなんだか厭味に聞こえなくもない。

お坊さんは日常ではなく非日常に実用化されるものだろうといった見解もあるかもしれない。しかし、人生とは日常、非日常合わせてなんぼのいのちを生きている。御用の時だけお声掛けくださいといった関係も解らないではないが、如何にもケチくさい話ではある。中には頭から必要としていない人もいるのが実際の世の中である。必要としていないものとってそれはないに等しく、実用以前の問題である。

俳句もまた嗜まない者には屁でもない存在である。嗜むものがどんなに偉ぶっても、押し売りしようとしても、実になんともない柳の風である。つまり、実用でありつつ実用でない。用も無用もなにかの裏表のようなものである。敢えて言えば、用を足したがるものにとってこその実用としての意義であろうか。

それにしても、お坊さんであり、俳句にも手を染めている私などは無用の魔力に魅せられたがごとき有様である。これはいったいどうしたことか。この用無し願望は何の反動であるか。解らないままに、今年も早や五月になった。四の五の言ってはいられないというのも無用の用の現実ではある。

結論として、あるべき無用の用の姿、本質とは空気の如き存在価値のことであろうか。あって当たり前な存在条件の領域にとって用、無用の論議、妄想は愚の骨頂ではないか。見方を変えれば一期一会の命ある事実に無駄なものは一つもないということである。無駄と云えば用もまた無駄である。

いづれにしても喰わなければ生きて行けない実体生活も佳境である。他人事のように「無用の用」を託って嘯いているいる場合ではない。お坊さんであることも、俳句を嗜むことも、用無用一如なるいのち全き様子である。




 
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「窓際」

四月尽わが窓ぎはの貧しさよ

エプロンに孕む風あり花ミモザ

日陰より日向の蝶を見て病める

頑張つて走る機関車花薊

なつかしき雨の音して花は葉に

雨ながら帰る家ある菜の花よ

火を着けて恋はおしまひ紫木蓮

花海棠開かむとして乙女さび

石の上に経諳んじて遅き日を

旅にある泥の眠りや竹の秋
 



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「五月来る」

流れ着く春曙の枕上

蒲公英の絮吹く悔ひのやうなもの

大口を二人静にきて噤む

落ちこぼれ咎められては葱坊主

犬猫の恋とは違ふうまごやし

逃散の裏口開いて金鳳花

白藤を手向けに雲を送るかな

辛夷咲く峠を越ゑて海を見に

かんばせに朝のひかりや五月来る

鬨上がる霧島躑躅平家村

虎杖や番屋呑み込む海霧の浜



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「寺山修司忌予修」

母を恋ふ菜の花地獄雨の中

傷舐めてをれば荒野の風薫る

寺山忌競馬地獄に花が舞ひ

手を洗ふメーデー地獄抜けてきて

夏兆す渚に消えてゆく詩篇

父といふ不在に春の夕焼けが

黙示録蜘蛛のごときに人を畏れ

のどけさに何かが閊へ暮れてゆく

人はみな空を貪り聖五月

鰊群来とふるさと行きの駅にさ迷ふ




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