再生への旅

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zoom RSS 今日の以心伝心・家族という存在

<<   作成日時 : 2014/05/12 22:05   >>

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鈴蘭の焦がれて已まぬ風の音 玉宗

明日は組寺の先住忌に随喜する。
十三回忌に当たる先住には公私に亘り随分と世話になったものだ。祖院の副寺を永年勤められた方で、教職にも就いて居られた。私が興禅寺に入寺するにあたっても鷲見監院老師からの指示もあっただろうが親身にお世話をして下さったものである。お弟子さんが後を継がず、寺族は境内に別棟を建てて住んでいらっしゃる。新しい住職も同じ教区で気心が知れている。とは言え、先代の家族と云うことで少なからず遠慮しているという話は何処からともなく聞こえて来る。

寺族と呼ばれる住職の家族。明治以降「肉食妻帯勝手たるべし」という国の口車に乗って、曹洞宗も又、その時流にのったわけであるが、それは同時に世間並みの家族の内実を出家仏教が背負ったということでもあった。大乗仏教は出家在家の差別なく日常を生きる道を実践するものであるのが建前ではあるが、未だに寺族の立場が社会的にも、宗門内的にも不安定なものであることは否めないであろう。

曹洞宗の場合、住職が亡くなって後継者がいない場合は、寺族はお寺を出ていかなければならないのが宗門の規範であり、社会的にもそのような目で見られている。お寺が公的なものである証左でもある。お寺は住職のものではないのであり、寺族のものでもないし、もっと云えば檀家のものでもない。能登半島地震で知らされたことだが、お寺とはだれのものでもない、というのが私の信念である。そんなことは一般社会でも通用する常識であろう。諸行無常の人生で、私のものと執着し得るものなど本来的に存在していない。そう思っているだけの事で、お寺の世界も又例外ではない。敢えて言えば、お寺とは仏の方を向いて生きていこうという志を持っているものの為にあったり、なかったりする「仮のもの」なのである。

寺族もまた一般の家族と同様に家長を支え、家長に支えられて生かされているのが実際である。住職もまた、己れ亡き後、寺族が困らないように手立てを講じて置くのが責任ある人間の在り方であろう。いずれにしても、人様の幸不幸など余人の窺い知れない領域のものであるし、窺うべきものでもない。
思えば人は誰でも、家を継ぐことに苦労しているようにも見える。昨今の風潮には、そのような家を継いでいくことへの意義を見いだせないままに暮らしている人間の浮かれ具合が見て取れるが、それも上辺だけの事。家族という最小にして最大の単位が存在条件であることから逃れないのではなかろうか。家族という縁をどのように生かすことができるかが試されているのである。縁を生きるこころざしの問題ということだ。それは当然、現代のお寺さん達に於いても。


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「夏薊」

麦藁帽子影を探しにゆくところ

撃たれたる鳥の如くに妻昼寝

大の字に寝ころび夏の雲に乗る

これよりはけもの道なり著莪の花

寝たきりの母裏返す麦の秋

行く雲に薊は夏を焦がしけり

悔しき世にひとり草引くばかりなり

花水木水のやうなる風そよぎ

海芋咲き日を呑み込んで吐き出して

母といふやはらかきもの繍毬花



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「母の日」

母の日やお天道様に顔向けが

夢に見る母に声なし明易し

仏壇に日当たる母の日なりけり

昼寝して厭になるほど満足す

夏草の風に抗ふ丈となり

纏ひつくものは蠛蠓くらいなる

膝揃へ飯喰ふをとこ代田寒

三界をはみ出してゐる三尺寝

麦打つや惜しみなく日は降り注ぎ

謎解けぬまゝに草引くことをせり



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「白鷺」

白鷺の鋼の脛のさびしさよ

人を待つ心細さよ若葉冷

山法師杞憂の空のありにけり

蕗の葉を枡にして汲む山清水

芍薬の花地に垂れて驟雨去る

雨降れば引かぬ草見て過ごしけり

竹皮を脱ぐや少年老い易く

影なしてうち重なりぬ若楓

水音ゆたかに瑞穂の里の昼寝かな

花菖蒲花びら風にそよぐほど






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