再生への旅

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zoom RSS 今日の発菩提心・お坊さんの妻帯ってどうよ?!

<<   作成日時 : 2014/06/21 13:38   >>

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衣更へて風を探しにゆくところ 玉宗

あるブログを拝見していたら、日本でも未だに妻帯しているお坊さんを仏弟子として認めたくないという方々が居られる事を改めて知らされた。些かうんざりもして。その、うんざりはそのように非難した社会の面倒くささと共に、私自身の中に些かならぬ文字通り自称「出家仏教」や自称「在家仏教」への抜き難い不信があるからである。

時系列に告白すれば、私はお釈迦様や道元禅師に憧れ、崇拝して出家したのではない。正確に言えば、出家したらそこにお釈迦様や道元様が居られたのである。そこに教えがあったのである。そこにお坊さん達の集団があったのである。出家の動機というものも、人を救うためとか、親の菩提を弔い供養するためとか、世界平和に貢献するためとか、そのような外へ向けられた動機ではなかった。人生や社会というものへの疑心暗鬼を抱えると共に、自己自身を信じ切れない苛立ち、私自身が生きていることへの抜き難い齟齬感といったようなもの、生きている実感の希薄さ、欲望に振り回されて生きていくことへのあほらしさ、闇を抱えて生きていることへ罪悪感。その時点で「死」は問題ですらなかった。「生」は有難いものではなかった。謎めき、ときに苦痛以外の何ものでもなかったし、無為に、無駄に生きることへの焦躁感の方が余程急務の問題だったのである。「出家」の本義、そして仏弟子とは何か、仏道とはなにか、などといった教義も本義も知らず、ただ無闇にお坊さんになりたかったのである。もっと実際に即して言えば、一刻も早く欲望に苛まれる自分から逃れたかっただけなのである。「出家」に対するイメージといえば、生産的に生きることを止め、山に籠り、欲望の彼方に生きることだ、といような一般的な通念しか持ち合わせてはいなかった。

私を例に取るまでもなく発心の動機は人さまざまであろう。問題は発心してからであるというより、発心してからが正念場なのである。教義、宗義も学ばなければならない。進退作法、威儀礼儀等々、身心の内外を調えることを覚えなければならないことは言うまでもない。然し、それもこれも出家の本質が担保されているからこそのことであろう。人間の直感とは疎かならないものがあるようで、発心の折のなにも知らないに等しい出家の世界へのイメージの中に、終生担っていかなければならない出家の本質が備わっていることに今になって気付くのである。

それは何か?

生きながら生まれ変わることである。それだけが出家の本質であると私は確信している。独身でいるとか妻帯するとかは集団の内外で云々されるべき野次馬的、井戸端会議的、表層的な問題である。
独身の仏弟子が仏法に一番近いと思い込んでいる御目出度さがある。妄想がある。偶像崇拝がある。権威主義がある。妻帯し、二足のわらじを履きながらも葬式仏教に加担しているお坊さんを目の敵にする御目出度さがある。事大主義がある。排他主義がある。正義感がある。オッチョコチョイがある。

だれが出家したのか?だれが生まれ変わりたいのか?抓れば痛いのはだれだ?妄想に苛まれているのは誰だ?死んでいくのは誰だ?他でもない、私自身ではないか!誰も私に代って生きてはくれない。死んではくれない。私もまた誰かに代って生きて遣ることも出来ない。死んでやることも出来ない。そこでは妻帯も独身も問題ですらない。

方法論的に問題提起しようが、原理的に問題提起しようが、それは誰が、誰の為の問題提起なのだ。平たくいえば放っといてくれということだし、放って置かざるを得ないし、放っておくべきものでもある。宗教と言えば異様なイメージが漂う現代社会なのだろうが、そうであるならば、既成仏教は宗教の看板を降ろしても良いではないか。日本仏教として革袋を代えればいいのである。出家仏教という看板も誰がどんな内実を期待して掲げたのか知らんが、現況の日本出家仏教がかくのごときであるなら、かくのごときものとして認知して貰うしかあるまい。

いづれにしても現実という露堂々にして面様な世界にお坊さんとして生きるのも知れた歳月ではある。一世代で志しを遂げることができるのも珍しいというべきだろう。独身であろうが、妻帯者であろうが、法を継ぐべき後継者に恵まれるか否かという現実的問題とともに、世の中は聖人ばかりではないからこその仏道なのであるという現実的問題が横たわっていることに目を背けてはなるまい。人間の智慧が生み出し、引き継いできた仏道という文化がある。空しいといえば全てが空しい。そうではあるが、空なる人生に頼れるものなど一つもないと覚悟出来た者にとって、その空しさだけが出家の本質である生まれ変わる一大事の尽力となるのである。宗教とは本来極めて個人的領域に属するものであり、成就するものではあるまいか。天知る、地知る、人知る、自己知る世界である。人にかまい、あげつらっている暇などありはしないと言いたい。



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「夏至」

夏至といふ大きな余白空にあり

咲き満ちて吹き零れたる栗の花

夏燕この世に甲斐のあるやうに

たらちねの闇の深さよ蚊帳の中

花南瓜しぼりをほどき開き初む

たましいに先立たれたる昼寝覚

万緑やお城のやうなラブホテル

幕引きを急かされてゐる不如帰

寄する波引く波月見草暮れて

いつよりの望郷桑の実を見ては

梅漬けて行方の知れぬ妻なりし










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コメント(3件)

内 容 ニックネーム/日時
> 管理人様

失礼いたします。

もしかすると、この記事は、拙僧のブログの記事が若干の影響を与えたことかもしれませんが、色々と補って下さいまして、ありがとうございます。

まずはメールの開示をと思いましたので、あのような簡単な記事を書きました。すると、コメントで、後輩からとても良い内容の指摘ももらいました。この記事もありがたく思います。

やはりこういう良い繋がりは大事にしていきたいと思いました。

まことにありがとうございます。
tenjin95
2014/06/21 20:02
この白い異次元の世界にいるような花は何ですか?向こうの小さな岩にこのように出ている白い花・・・
よく見ていたら、こちらから伸びているのが岩肌から出ているように見えるのでした。ちょっとがっかりしましたが、でもこれは何という花ですか?
花てぼ
2014/06/22 20:15
花てぼ様。
いつもありがとうございます。
独活の花ではないかと思います。間違っていたらごめんちゃい。輪島では海岸線でもよく見かけます。どちたにしても私は独活の大木ですが・・。(^^)
市堀
2014/06/23 16:53

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