再生への旅

アクセスカウンタ

zoom RSS 伽藍は大きいに越したことはないのか?

<<   作成日時 : 2014/06/04 22:23   >>

トラックバック 0 / コメント 0

画像


わが庵は蜘蛛が囲を借るほとけかな 玉宗


大本山總持寺祖院報恩授戒会が始まった。
能登の六月も暑くなった。汗だくの中で法要に随喜している。暑いのは私だけではないという現実を受け入れる事でなんとか凌いでいるようなもんである。それでも祖院の法堂は窓を開けっぱなしということもあり、心地よい風が吹いて来ることがある。天井も高いので窮屈感が薄い。まあ、参詣者が多いのでときに息がつまることもなくはないが。

復興もなり大法要の舞台となっている祖院の法堂。以前は大伽藍という言葉に相応しいと密かに誇りに思っていたのだが、数年ぶりで動き回ったり、正坐したり、楯横、斜めに眺めてみても、以前より大きいという感じがしなくなっている。これはどうしたことかと訝ってみた。

伽藍の大小でものを言えば、一般的に宗教施設というものは高さや広さを志向しているようなところがる。宗教心が空間の広狭に左右されるというのも解らなくはない。自己という狭い世界に右往左往し、拘り、蟠ることの多い人間である。然し、それは本末転倒なのかもしれない。もとより、世界の広さ、狭さなんてものは塊のようにありはしない。自己の見解答に蟠り、拘り、執着するから世界が狭くなるのではないのか。そんな卑小感に苛まれている人間を広い空間へ抛り出し再生させる効果が宗教にはあるのだろう。

そういうことからしてみると、私の場合、法堂が狭く感じているというのは如何なものなのか。伽藍の大きさに圧倒されない自己を確立したのか。器に左右されない内実の柔軟さを持ち得ているのか。そうではなくて、ただの図々しくも、厚かましい仏弟子に成り下がったのか。救いようのない単なる開き直りの鈍感に過ぎないのか。いづれにしても、自己の世界の様子に変調を来しているには違いないのだが、そんなに悲壮感を持っている訳でもない。以前よりものほしげに生きている訳でもない。

愈々痴呆が始まったのだろうか。われながら変な感じではある。



画像



画像


画像




画像




「芍薬」

芍薬の花がどうにも大き過ぎ

薔薇咲いて抱いてくれろと言はむばかり

真面目さが聊か足りず羽抜鶏

山霧のうごめきわたる花水木

枇杷の実の種に手間取ることをせり

杜鵑まだ見ぬ夢の彼方より

はまなすや逝きて帰らぬ声ばかり

蛇擲てば嗤ふがごとくのたうちぬ

夢を見し肉のひだるさ昼寝覚

夕焼を見に行かぬかと妻のいふ

うすものを纏うて沖にゐる思ひ

テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
伽藍は大きいに越したことはないのか? 再生への旅/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる