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zoom RSS 今日の折伏・懺悔とは何か?!

<<   作成日時 : 2014/06/05 20:00   >>

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一隅を照らしあやめの黄を点ず 玉宗

授戒会も三日目になると懺悔道場が夜半に行われる。

「懺悔・さんげ」とは罪を悔い改めることであるが、戒を授かるにあたって当然の事として戒を受けるべきこちら側のあり様が問われている。仏道はありのままに生き生かされることには違いないのであるが、煩悩まるけのままでいい訳がない。自己という器に仏法を授かるには器がある程度空っぽであるに越したことはない。理想的には底なしの空っぽ状態が望ましかろう。故に真の懺悔とは口先だけの話ではない。身と口と心からの自然な成り行きであるのが本来であろう。そのなりゆきとは、妄想や執着の実体の空なることの目覚めということ。本来空の実体に目覚めて生きる、それをしも仏道とは言いたい。

戒を授かる前提としての懺悔とは言うものの、それはあくまで理屈であって、その実際は授戒と懺悔は同時行である。どちらもいのちの目覚めの機縁を角度を違え、方便して語っているに過ぎない。懺悔した、授戒したといっても、いのちの実際に段階がある訳でもない。いのちはいつも全分的に躍動している。得てして、私が懺悔した、私が戒を授かった、私が悟った、私が仏法を体現している、などという屋上屋を重ねるが如き見解の愚かさに堕しているのを見かける。というより、わたくし持ちの見解を持ち歩いていると言うべきか。これをしも、裸の王様、偶像崇拝とは言うのである。

仏道はどこまでもこだわりのない、ひろやかな命の地平を歩むものでありたい。冷暖自知とは命の真相、実体は誤魔化しの利かない世界を生きているということを語っていよう。冷暖ばかりではない、迷悟も、生死も、凡そ二律背反する命の矛盾さ加減という代物は自己にしか解り得ないものであり、且つ、そうであるからこその救い、成仏なのであると言いたい。そのような次第であってみれば、仏道とは自己究明以外の何ものでもない。自己を生きるのは自己のみ。この極めて当たり前な事実を私は逍遥と頂いていきているだろうか。この極めて絶対的な命の事実を知足して生きているのだろうかということだ。

自己の仏道の歩み具合を顧みた時、その余りにもお粗末な道行きに唖然とするのが常である。そのたびに何遍でも懺悔を繰り返す。仏の顔も三度までどころではない。生きている限り懺悔を繰り返しながら一歩でも仏道を進もうと心掛ける。それがそのまま、半端な私と言う人間の生きる意義、醍醐味となっていることを懺悔しておこう。合掌。



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「法華経」

法華経をたらふく食うて雲母虫

墨染の袖に払ひし金亀虫

白雲に乗り遅れたる昼寝覚

杜鵑寝ても覚めても只管に

穀象をつまみ出したる典座かな

百僧を煙に巻いたる竹婦人

蝿が来て五体投地の尻を嗅ぐ

折伏もならず徒なる玉の汗

戒名を貰ひ水打つ女かな

折からの卯の花腐し眠るべし

みほとけに仕へしけふの髪洗ふ

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