再生への旅

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zoom RSS 仏弟子という虚しさに生きる

<<   作成日時 : 2014/06/12 19:39   >>

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繍線菊の花をけぶらせ忌の小雨 玉宗


大本山總持寺祖院の報恩大授戒会も終わり、些か気の抜けた日々を過ごしている。
祖院の震災復興事業はまだ十年ほど続くとのことで、全てが竣工した折に再び授戒会を開催するという噂が早速流布している。真偽のほどは知らないが、十年後の行事と聞いて、わが身の十年後に思いが至ったことである。

生きていれば、夫人も私もその頃は古希を目前にしている。修行中の弟子はまだ三十代である。十年ひと昔とは言ったもので、その有為転変、変遷は目にも、思いにも余るものがある。一寸先は闇である現実。当てになるようで当てにならない現実。今を生きていることが奇跡的であるとしか言いようがない、鵺のような現実。
そうではあるが間違いなく人生の終着駅に近付いている現実でもある。60年近く生きてきたということは死への一里塚をいくつも越えてきたことにほかならない。

そのような、生まれて、生きて、死んでゆく、定まった諸行無常の人生に意義といったものがあるのかないのか。虚しいと言えば全てが虚しい。虚しさが人生の意義ででもあるかのように、手のつけようもない奈落の如き虚しさがある。断絶がある。生きているいのちとは実に哀れなものである。然し、虚しさゆえの救いというもののある。諸行無常なる故の成仏がある。エンドレスの人生というのも地獄だ。この四苦八苦が永遠に続くと思えば大凡の察しがつく。というより、それはもう人のいのちの人生ですらない。

自らの終焉を条件としてこの世に生れ落ち、いのちの全うを尽くす。人生の意義というもこの条件下で私自身が創り出していくものに他ならない。そして、仏弟子とは己れ虚しく生きることにほかならない。わたしがいてもいなくてもなんともない虚しさだけが私を解放してくれる。

もし十年後も生きているとしたら、そのような十年一日の思いで今を過ごしていることであろう。



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「銭」

梅雨湿る賽銭箱の重きこと

ポケツトに小銭潜ませ見る金魚

雨ついて戻る舟あり銭葵

銭を手にいつしか汗を掻いてをり

さつきからこちら窺ふ守宮らし

先生の本音が百足虫擲ちにけり

ごきぶりが視界を出たり入つたり

人とゐて腋甘くなる暑さかな

ががんぼの障子を叩く音らしき

たひらかに火花散らして額の花


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「噴火湾回想二十句」

朝焼の海へか黒き澪を曳き

夏山の形を仰ぎて漁場探す

海底が手に取るやうに箱眼鏡

寡黙なる夫婦漁る若布刈舟

森なして揺らぐ昆布を刈りにけり

雲丹を採る竿もて礁離しけり

海峡へ蠢き已まぬ青葉潮

烏賊釣りの父の漁火胸に眠る

汗みどろ潮みどろして昆布干す

天草干し寝静まりたる蜑が昼

夕立の洗ひ上げたる礁かな

ピリカなる浜に海猫鳴く番屋かな

烏賊釣りの父へ焼酎持たせやる

今もなほ出稼ぎの町飯饐える

夕焼けの浦に影して駒ケ岳

はまなすや沖遠くしてやすらけく

虎杖の花へ海霧襲ひ来る

父よ母よ馬鈴薯の花咲くたびに

漁火の遠ちにゆらめき夕涼み

ふるさとの山惜しみなく滴れる












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