再生への旅

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zoom RSS 人間らしさの向うにあるもの

<<   作成日時 : 2014/06/17 21:36   >>

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萩若葉風を手懐けはじめけり 玉宗

なにかにつけて始末の悪いわが身を顧みて痛感するのであるが、、いやが上にもわが身の人間らしさを生きていかざるを得ない現実がある。また同時に仏弟子とは人間らしさの向うにあるものを信じ志して生きているのには違いないのだとも思い知らされる現実もある。

人は人生の歩みの先々で生きて行く不安、心細さ、疑心暗鬼を抱くものだが、よくよくそのあり様を点検してみるに、そのような謂わばこころのかげり、闇をもちながらも、それなりにちゃんとなんともなく生かされているいのちの事実があることを否定はできまい。それだけではなく、浮足立つような期待感の中にいても同様に、私のいのちはそれらの思いを置き去りにして、なにごともなかったもののごとく、今を生き伸びている事実がある。ああでもない、こうでもないと思い煩いながらも、いのちは様々な縁をいただき今にあり続ける。人の世の、自他に亘る毀誉褒貶の外に、わたしを生きているいのちの、もの足りなさ、なんともなさ、柔軟さ、たくましさ。

人間というものは人生を重ね、老いるにしたがって欲もまた少なくなるもののようだ。というより欲が変質するのだろう。かつて抱いていた不安や期待が雲散霧消していることにこの歳になって気付くことがよくある。見方を代えればあたかも、当てにならない不安や期待を抱きながらもそれが煩悩力、妄想力とでもいうような有り様で生きている。煩悩に振り回されて生きている。それをしも人間らしさと言うのだろうが、思えば手間の掛ることをしているものだ。それでいいのかと仏道は問うているのである。

今という広大にして縦横無尽、そして永遠なるもの。ときにもの足りない思いを抱きながらも、なんともなく充実している今の命。そのようないのちを生きている私にできること。それは今を真っ直ぐいただき、拘りなく、ありのままに生き切るより他に手立てがない。何の因果か知らんが、目覚めて生きていかなければならない所以でもある。

人間らしさの向うにあるもの。あるがままのいのちに身も心も任せる。死んで生きるとはつまりそういうことだ。広大無辺な自己のいのちを私という狭い世界に縛りつけず、私という人間らしさに絆されずに生きること。自己を生きるのは自己のみであり、その比較を越えた絶対的事実であることに何の遠慮も、何の驕りもいらない。どこまでも、ただひたすら、そのものでありさえすればいいのだ。それを成仏とは申し上げたい。それ以外の何をいのちに期待し、何を人生に賭けていいのか私には解らない。


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「合点」

紫陽花の花に囲まれ船酔ひす

仏弟子の妙に生々しき素足

安居僧らしきが切手舐めてをり

百合咲いてゐても合点がゆかぬなり

舟虫に見透かされたる油断あり

行く末の大凡見えて浜豌豆

飛ぶ鳥の腋の甘さよ涼しさよ

潮の香の風の湿りや花とべら

桑の実が虫唾の如く黒ずめり

なにもかも過ぎたることよ南風吹くも


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「骨」

蛞蝓に慕はれてゐて少し困る

老鶯の頻りにどこか投げ遣りで

蛍来よそろそろ骨も水浸くころ

糸蜻蛉なかば吹かれてゐるばかり

つくづくと臍に穴ある暑さとも

夏草や先祖といふも馬の骨

夏蝶が座敷をまかり通りけり

そもそもが生まれて以来蚊帳の外

韮咲いてこんな筈ではない夕べ

端居して墓石ほどの遠さあり

その中に後ろ髪引く蟻のゐて

目瞑れば棺の中や青葉木菟













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