再生への旅

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zoom RSS ありのままに、ってどうよ?!・人間らしさの向うにあるもの

<<   作成日時 : 2014/07/21 21:26   >>

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ひそやかに生きる人あり花ぎぼし 玉宗

「アナと女王」というデズニイーアニメが話題を浚っている。内容もなんだが、その挿入歌は確かに心地よい。ところで歌詞の中で「ありのままで生きる」というフレーズが出て来る。「ありのまま」という言葉はこの歌に限らずそこここに散見するし、私も臆面もなく口外してきている。ここに来て遅きに失している感がしないではないが、世間と出世間の「ありのまま」、世法と仏法の「ありのまま」。その違い、或いはありのまま加減を検証してみたい。

一般的に「赤裸々に、ありのままに生きたい」と言った時、それは自由気まま、自分勝手にといった欲望の棹さすままに自己責任で生きる、といった開き直りの響きがある。全ての欲望が叶えられる筈もないことは承知の上で、それでもなお欲望が自己の主人公であるとして顧みない。人生の意義もそのような、何ものにも縛られない「ありのまま」な生きざまにこそある。一度きりの人生を自己の欲望充足に宛がうことに勤しんでいる人たちがいる。「生きているだけで丸儲け」と誰かが言っていたが、確かにそうではあるが、「いのち丸儲け」を「丸儲け」として「あるがまま」に受け取れているかどうかは別問題である。人は中々に「生きいるだけ」という訳にいかない厄介なところがある。世の中はそれぞれがそれぞれで満ち足りていないようにしか見えないことがある。

「ありのままの現実」と言うが、人は現実を「ありのままに」見たいと思っているのだろうか。人は自ら「迷いたがっている」のではなかろうかと思いたくなるときがある。ありのままなる「邪推」がまかり通っている現実がある。人間にとって「ありのまま」は余りにも「過酷で、受け入れ難い」ものだということなのだろうか。或いは「ありのまま」とは余りに「妙で、怖ろしく、つまらないもの」なのだろうか。自分の見たいように見、言いたいように言い、耳も目も心も貸さない。迷いたいように迷い、いのちを真っ直ぐ生きることをしない。自分持ちのありのままが横行している現代社会。現実に生きながらも、妙に現実離れしつつある現代社会。ありのまま過ぎて収拾がつかないあり様のような現代社会。

然し、自由気ままに生きるには余りにも思い通りに行かなさすぎる現実がついて回る。これはどうしたことか。節度があってこその自由であることに人は人生を歩み始めて間もなく知ることになる。それは大して難しい内省ではない。神話の定義を、<本来は人間の手の届かない神についての話を、あたかも人間の手中にあるかのように語ること>とするならば、「ありのまま」とは人間らしさに拘って生きようとするものにとって竟に神話のような代物である。
「神は己が姿に似せて人間を創り、世に送り出した」というが、人間も又、「己が姿に似せて神を創り出し」てきたのに違いない。それは「仏の姿」に於いても同様である。「神仏」が人の姿に擬えているのは、それらが人間の人知を超えており、想像力の範囲外であることの証左であろう。精神はその体積を入れるに足りる器を必要としているように見える。一体でなくなった現実を、自己を、他者を、ありのままに見、聞き、感じ、生きることの難しさ。

仏法とは「相対的意味づけ」ではなく、「いのちの絶対性」に生きている事実を言っている。本来的に比べられず、限りあり、縦横無尽の条件下にある「いのちのありのままさ加減」。仏道とは竟にそのような「ありのままないのちへ深まる」ということである。善悪や煩悩・欲望の彼岸にあるいのちそのものの輝き、闇、謎、豊饒さ、広やかさ、危うさ、なんともなさ、知足がある。それは人間の条件であると共に仏弟子の条件でもあるという信仰がある。謙虚さがある。安楽の法門がある。ありのままがある。

実は、一刻も早く「わたしを苦しめる私のありのままの思い」を投げ捨て、「ありのままの欲望を脱ぎ捨てたい」といった望みが私にはある。私を苦しめる人間らしさ越えたいという望みがある。ありのままの私がいる。一般社会の「ありのまま」とは実に人間らしさに由来する都合の良さであり、都合の悪さである。然し、人生の真相は自分に都合のよいことばかりが巡ってはこないし、悪い事ばかりでもない。因果応報と心得て全てを受け入れる覚悟が試されているのも実際のところである。逆説的に言えば、「私限りのありのまま」を越えた「究極のありのまま」こそが煩悩を捨てるに値する。

その様な事からしても、成仏とはいのちに何かを付けたしたり、差し引いたり、特権を与えたりすることではない。生老病死を生老病死として、諸行無常を諸行無常として、今を今として、存在を存在として、自己を自己としてすべて引受ける。そのような柔軟にして、危うい本来のいのちを生きている。逞しくも謎めいたいのちの本来性を生きている。私にとって「ありのまま」とは、手のつけられないいのちの可能性、本来性のこと、究極の自己責任の世界のことだったのである。、浮かれて済ませるような筋合いのものでもないが、こだわりがなければ「なんともない」代物ではある。


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「河骨」

暑き日の河骨煮ゆる日差しかな

向日葵や遥かに濤の音がして

鬼ヤンマ曲がるに少し手間取りぬ

緋の扇翳して峡の合歓の花

夏茜名もなき棒に来て止まる

蝶沈む青田穂波の海原に

帰省して図体所在なかりけり

けものめく森へ先立て捕虫網

月並みの句をまた吐けり蝉しぐれ

本堂を素通りしてゆきぬ青田風

越し方行方塩辛蜻蛉風任せ

咲くことの散るにまかせて花むくげ

去りがての雨脚見ゆる藺草かな


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「海の日」

開きたる海風に幣千切れたり

泳ぐ子を見てゐてこころ足りにけり

夕焼けの渚に担ぐ神輿かな

姫神を漁師が担ぐ浦祭り

生きてゆく力なつかし蝉の殻

あかはらの月夜に遊ぶ浮き沈み

祈るかにうすばかげろふ透きとほり

浦かけてわたる星の座夜干梅

音絶えし空に翳して百日紅

落人の誇りを今に能登上布








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