再生への旅

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zoom RSS 今日の諸悪莫作・自己という実物

<<   作成日時 : 2014/07/27 21:11   >>

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玉葱を吊るす山家の深庇 玉宗


内山興正老師提唱録『正法眼蔵・諸悪莫作を味わう』の中には「実物」という言葉が繰り返される。実物とは何か?仏道は実物で生きる事だとはどういうことか?なぜ実物で生きなければならないのか?

<・・・では仏法とはなにか。どんな仏教の本を読んでも、この肝心な「仏法とはなにか」ということがはっきり書かれていない。そこで私はいつもその話をしているから、いまは結論だけ申しますと、仏法とは、私の言葉でいえば「生命の実物」です。これに対して世法とは、実物から宙に浮いた、他とのかねあいの話です。つまり世法は実物ではなしに、いつでも他とのかねあいの世間相場で物事をみる。
たとえばお金も他とのかねあいのところに価値をもつ。お金の実物は紙でしかない。その紙を一枚か二枚手に入れるために人殺しをする、などということもある。地位というのも同じです。なんとか長とか、なんとか総裁などといえば、いかにも偉そうに聞こえるが、なあに、その実物は単なる老いぼれだ(笑)。略
仏法はこういう他とのかねあいの世法ではありません。すべて実物をみる。仏道は実物で生きる。世間の約束事、作りごとで生きることではない。>


<世の中は依然としてこの種の社会悪に満ち満ちでいる。要はそういう社会悪に立ち向かう人々をも含めて、人間自身が、まだ、まるっきり自分が自分として片付いていないということです。>

というわけで、善悪の基準も世法と仏法では自ずから様子が変わってくる。ここには先行事項としてどうしたら一度きりの人生を、一期一会の命をぶれないで生き切ることができるだろうかという実存の自問自答がある。反省がある。悔悟がある。果敢無いことこの上ないいのちが充実した人生を送るとは如何なる生き方であろうかというアンチテーゼがある。矛盾がある。生死即涅槃の止揚がある。人間力がある。出家、仏法という社会へのアプローチがある。

<たとえば世間では、自己修養をして、自己鍛練して、自分が向上し、自分が偉くなる。それがいいことだと思っている。しかし、仏法はそうではない。仏法は我を捨てるということからはじまっているのです。だから俺が修養をつみ、俺が偉くなるなんてことは、いいことだとはいえない。仏法の話はそんな簡単なことではない。「小乗の自戒は大乗の破戒」という言葉もある。小乗の坊さんが「俺は戒律をたもっている」などというのは、それだけ「我」がつっぱっている。「我」がつっぱっているからには大乗からみれば破戒です。坐禅でもそういうところがある。>

<仏法の話は決してただ単に悪いことをしてはいけないという制止の話ではない。むしろ根本的に諸悪は既に作られずなりゆく、という話なのだから雄大です。そのあたりは新興宗教の「よいお話」とは次元が違う。>

<仏法では、「諸悪既に作られずなりゆく」という天地いっぱい、永遠の人生の坐りにドカッと坐る、そういう修行をしようというのだから、話はちょっと難しい。言い換えれば地盤の問題です。おのおのどういう地盤に住んでいるかがまず問われる。>

諸悪も衆善もわが生命実物地盤から再点検しなければならないということだ。どこまでも今、ここの、自己のいのち、事実の話ということである。絶対性へに帰命がある。誓願がある。

<そういう人生地盤とは詰まるところ天地いっぱい、尽地、尽界、尽時、尽法という自己の生命実物を自覚することです。この天地いっぱい永遠の生命実物という観点から見渡せば、地上の出来事などなんともない。このなんともないということが「莫作」です。>

諸悪は莫作として実物なのであり、衆善は奉行として実物なのであるということ。実物なるがゆえに手のつけられない莫作、奉行なのであるということ。実物なるがゆえに「信現成」の今がある。自己がある。般若がある。生死がある。

「生命実物」という「自ずからなる」「莫作」の「自己」。そのような「自己が自己に落ち着く、自己が自己を生きる」こと以外に仏法も仏道もないのだということ。思えば究極の自己解放、自己実現の世界であろう。お前はどっちを向いて生きているのだとしたら、人生、どっちへどう転んでも自己ぎりの自己を生き切る。なんともないところを真っ直ぐ生きる。当に応無所住而生其心にして無為なる欲望を越えたところ、そこにこそ迷妄、輪廻の救いがあることを肝に銘じなければならない。即非なる安楽の法問がある。

誰も代わって私を生きてはくれないという事実にこそ迷いも悟りも兼ね備えた生命実物の深さというものがあるのだろう。仏法が一筋縄でいかないという難しさは、私の妄想や煩悩、執着の深さなる故でもあるが、然しそれはそのまま覚醒への縦横無尽な入口、方便門でもある。道はいつも私と共にあるが、歩まなければ「道」の意義をなさない。ということはどういうことか?自己が自己として成仏すること、それがこの世に生まれてきた意義だということだ。無常即仏性。私はそう思う。言い換えるならば、自己が自己の生命実物に落ち着くこと以外の、どこにも宗教の面目・生死の意義はないということだ。(以前UPした記事に加筆、訂正しました。)


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「打水」

打水の水焦げ臭き石の上

朝顔の花には強き海の風

箱庭に霧吹きかけて父戻る

働いてばかりの母が摘む夏花

玉葱を吊るす庇を借りに来る

河童忌のへの字に曲がる胡瓜かな

生きながら遺品となりて土用干

飯饐えて母の泪の味したり

蝿叩父に持たせてやりにけり

朝焼の海へ閉ざせる塩煮小屋

帰省していつもとちがふ歩幅かな

田水沸き山越えて来る薬売り

星近き鐘撞き堂に夜干梅



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「朝顔」

朝顔に洗ひ晒しの月日あり

咲くことの甲斐なき花の木槿かな

茄子の馬ゴーヤの馬に追ひ越され

月風に吹き払はれて葛の花

岐阜三川源流として滴れる

妻や子を捨てゝ紫蘇揉む典座とか

桶水に半ば溺るゝ巴旦杏

てのひらに掬へば清水脈打てり

夕月に暮れ泥みては蓮揺れて

かはたれをさ迷ふ烏瓜の花

河骨や月にひと声鳴く烏

酸漿や同胞つひに仄暗き















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