再生への旅

アクセスカウンタ

zoom RSS 今日の以心伝心・「不安」との付き合い方

<<   作成日時 : 2014/07/07 07:31   >>

トラックバック 0 / コメント 1

画像


あかときの夢のつづきや杜鵑 玉宗

「不安」との付き合い方、間の取り方といったものがあろうかと思う。
目に見えない「わが思い」に、良くも悪しくも、いやがうえにも、或いは好き好んで、已むに已まれず、引き摺られ、引き摺り生きている私がときにいる。これでいいのかと臍を噛むどうしようもない私がいる。そうでありながら、抓れば痛い五体がある。生きるとはそのような「業」を重ねることでもある。そのような輪廻転生を繰り返している人生の宿命。それでいいのかということだ。

社会は「情報」という「思い」のやりとり。そのような娑婆にあって、仏法の真意、意義といったものが那辺にあるのか。命あるものは死す。諸行無常。眼前のそのような人力を越えた命の実相から全てが始まっている。そこに立ち返らなければならない。そのような一期一会の命をどう生きるのかといったテーマを人生は専権事項としている。お坊さんという生き方もその一つの選択肢であり、その規則の法を仏法に依拠しているということだ。

人のこころは計り難い。それは自己のこころを顧みれば容易に腑に落ちることである。様々な不安を抱えて生きているのが人間の相場である。不安を生きる力に変換する、反作用させる工夫がある。自己の不安だけではなく、自己の喜怒哀楽、自己の生老病死、自己の修行菩提涅槃を川の流れのように見遣る工夫が、国境や人種や宗派を超えての「行」の本義であり、恩恵ではなかろうか。

「思い」を越えるという黙照禅の工夫がある。面壁の宗旨がある。只管打坐の説法がある。身心脱落の公案がある。メタンガスのように湧いては消え、消えては現れる「思い」。その泡沫の転生に縛られず、川の流れのように遣り過ごす坐禅中の息使い。命のままのあり潰れた様子。今の事実がある。「思い」以前以後の端的がある。私がいてもいなくてもなんともない一切皆苦がある。私がいなければ何も始まり終らない諸行無常がある。知足がある。わたしという取るに足りない三界唯心という大いなる余白がある。間がある。縁起がある。信を以って能入の仏法がある。

「思い」の渦中にあってなんともない今の事実がある。息使いがある。五体がある。「思い」という自己の中に巣食う人間らしさを越えたものが現前としてある。瞎睡すること勿れ。不安は不安を越える為に立ち現われる。そのような不安との付き合い方、間の取り方があってもいいだろう。


画像



「七夕」

七夕や洗ひ晒しの寝巻着て

遠ざかる星を軒端に祀りけり

声出して笑はずなりぬねじり花

願ひごと少なくなりし素足かな

稲の花夜の向かうに噎せかへる

堕落せし夏のゴリラを柵越しに

弟を影かとおもふ夜店かな

くちなはに足手纏ひのなき愁ひ

蜑が家の路地の狭さや天草干し

而して西瓜食ぶるに専念す

蚊遣焚く遺影ばかりに囲まれて

困るほど実梅をくれてゆきにけり







テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
お早う御座います。
何時も読ませて頂いています。

困るほど実梅をくれてゆきにけ

り・・をお忘れに!なっています。(*_ _)


たか子
2014/07/07 09:01

コメントする help

ニックネーム
本 文
今日の以心伝心・「不安」との付き合い方 再生への旅/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる