再生への旅

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zoom RSS 永遠を失くした現代人?!再考

<<   作成日時 : 2014/07/08 06:08   >>

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谷を出て一気に青田風となる 玉宗

「永遠を失くした現代人」ということについてもう少し再考したい。

人類は当初から命が生と死の条件の元にあることをいやがうえにも知らされたに違いない。現前の端的な様子から命が儚く、限りあるものであることは疑いようもなく、この世にいなくなったことは目に見えない世界への旅立ちとして捉えられたりしたことだろう。異界と現象界。この世あの世。有と無。現実と非現実。それらが次元を異にしながらも繋がっているといった世界の把握の仕方が生まれていったのも、人間が世界と一体であることを疑わなかった無知の為せる業である。

目の前にある屍は余りに無惨であり、無常であり、無情であり、無意味であり、余りにも越え難い領域を提示している。そこには何かの意図があるに違いなかった。あって欲しかった。ある人間は当然のごとく「永遠の命」を欲したし、或いは、創り出した。「意味」を考えだした。人類はその置かれた環境の中で身の丈に合った「神話」を創世した。言い換えるならば、「永遠」を欲した彼らは現実という有為転変の中で命を育み、生死せざるを得なかったということである。人類の歴史、それは「無常」「有限」が命の宿命、条件であることを知らされる歴史であり、それは取りも直さず、時代が要請した永遠性のテーマの歴史でもあったとも言えよう。

人類も地球も永遠なるものでないことを知ってしまった現代。「永遠なるもの」を失くした人類。それは人類の危機だろうか。人類の再出発だろうか。永遠なるもの、、それは竟に限りあるものを使わせて訪れる一つの夢なのであろうか。人生とは夢を語ることに他ならないのかもしれない。そしてそれは釈尊以前から繰り返されている人間のあさはかさ、神に見捨てられた人間の足掻きなのかもしれない。人類の愚かさこそ「永遠」ではないかと思いたくなる。

釈尊は無常が仏性であるとも諭している。何も知らないに等しい私一人のための広大ないのち。傲慢に成り下がった人間に、新たな「永遠なるもの」のテーマの構築は可能だろうか。創世期は今も尚続いているのかもしれない。


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「小暑」

煮炊きの火止めて小暑のうたた寝す

水無月の閼伽に仕へし目覚めかな

火を通すもののにほひや星祭

さみだるゝ漣ほどの火をつかひ

黒南風の閊へてゐたる小藪かな

虫追ひの藁舟燃ゆる夜の海

姫神を祀りし蜑のさざれ石

葉隠れの虫の息なる端居かな

夏萩の雨に倒るゝ丈となり

雨ながら星を祭りし子の眠り

触れ合へる七夕竹や蜑が家の

寝そびれし灯を取りに来る羽音かな









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