再生への旅

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zoom RSS 宗教が抑止力になるとき?!

<<   作成日時 : 2014/07/10 20:20   >>

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暑き日の水すぐ渇く石の思ひ 玉宗


昭和30年生まれの私は戦争を体験していない。戦争を人類の愚かさと言う前に、人類の真の愚かさとは歴史から学ばないこと、つまり自己の真相を知らず、或いは過大評価し、或いは過小評価することだとして話をしよう。

私は「戦争を知らない子供たち」の世代であるが、私の回りには、世界中の戦争・紛争・テロ・略奪・犯罪・等々が毎日のように文字化や映像化されてやってくる。まるで地獄や阿修羅と紛う情報がコマーシャルや娯楽情報と同じレベルで世界を駆け巡り、垂れ流され、忘れられていく。現在だけではなく、過去のものも、そして未来の希望観測的な、又は悲惨なシュミレーションまでもが、これでもかこれでもかという執拗さで繰り返され届けられる。情報を選択する余地もないままに、情報の飽和状態の中で今を生きているようなあり様である。

過去も未来も「情報」という動かし難くも陽炎のような「現実」となって私の日常に暫し留まり、そして徒花か滓のように通り過ぎて行く。「情報化」された「不安」や「希望」が霞のように私の空を蔽っていたりいなかったりする。まるで情報が神の言葉であるかのごとく。
世の分別ある識者たちは「戦争を知らない」私達の「現実感の甘さ」を危ぶむ。「現実」を生きる厳しさ、厳粛さに欠けている戦後世代の呑気さと危うさを憂うる。その一方で私達は血を流さなければ贖えないような「現実という化け物」のリアリテイのなさに戸惑っている「優し過ぎる世代」でもある。

今も昔も世界中に悲惨な事は絶える事がない。それを見るたび聞くたび、感覚が麻痺するどころか、私は胸を締め付けられ、涙する。情報が私の感性を揺るがす。殆どそれは条件反射のごとくでさえある。私の命のどこかに擦り込まれた他者の痛みを共感する感性。しかし、それは他者を排除する反作用として働くこともある煩悩の一つなのかもしれない。情報が溢れる現代と世界がまだ狭かった昔と、その感性に違いはあるのだろうか。お釈迦様の時代より現代人の方が、痛みを共感する能力が麻痺し劣化しているとは思いたくはない。

戦争や核の抑止力というものがあるのだという。相殺するとは暴力を無意味化するということだという。然しそこには単なる言葉のレトリックを弄している胡散臭さが拭いきれない。暴力から意味を剥奪するならば、核を持たない抑止力と云うものもあるのではないだろうか。丸腰の人間を意味もなく殺めるほど人類は残忍なのだろうか
核戦争が人類の愚かさの象徴であることは誰もが分かっている風である。然し、解っていても、どうすることも出来ない、どうすることもしない風でもある。もの解りのいい現代人の絶望も又、極めてリアリテイのないもになってしまった。これも「情報化社会」に浴する故の効果であろうか。

私という小さな存在がどうしたらリアリテイを持って今を生きる事ができるか、他者と争わず自己ひとりのいのちに落ち着くことが出来るか。宗教がそういうものでないならば、宗教そのものも自己抑止力を持たない単なる駆け引きの道具に過ぎないものになるだろう。宗教が戦争の大義名分に成り下がる所以である。戦争の悲惨さが学習されないのは、経済もさることながら、個々の冒し難い命の絶対性への尊厳さが抑止力を持たないからだ。話しがそのような人間力のパワーバランスの中でのことであるならば宗教は永遠に戦争の抑止力とはならないであろう。

現実と理想。社会と個人。それは双子の兄弟のように分かち難く、そして全く別のもののごとく歩む。そのような世界の矛盾の為に私は存在するのだろうか?しなければならないのだろうか?社会とは個の集積だろうか?それは全く別の生きものなのではないか?「現実」はすべて、「私」という「小さな可能性」が「何をしたか」「何をしなかったか」という足跡からの地平であり、「愚かさ」とはやはり、私が私自身を知らないことが根本である。社会の愚かさはそのような個の愚かさの集積として制御不能となる。

釈尊は個が単に社会の要素としての量的存在なのではなく、私一人のいのちの絶対的領域に生きる何物かであると諭す。命の深さへ向けて自己変革のアプローチに専念せよと云っている。自己の変革は世界の変革であるという確信がある。理想がある。それを為政者や社会は弱者の戯言と言う。釈尊にはどこかにそのような人間や社会の愚かさを見切っているようなところがある。

嘗て王室で暮らしていた釈尊。その王国が戦争で滅んでゆこうとしているのを見て、出家した彼は立ち上がり武器を手に戻ることはなかった。煩悩と云う情報に振り回されることもなく、ただ、黙って坐禅をして自己のいのちの深さに居座った。あれが宗教が抑止力となった瞬間であったと私は思っている。一粒の種が地に落ちる瞬間。

ガンジーの非暴力主義も主義として受けつがれていくうちに争いの種にされてしまった。畢竟、宗教は戦争と云う愚かさに対して無力であるのか。然し、それは人間に絶望することと同じ愚かさなのかもしれない。宗教が無力なのではない。無力な人間がいるのだ。人間がそうであるように、宗教もまた可能性の上の存在するものであるには違いない。抑止力という代物もまた可能性の上の話である。そしてまた可能性というもまた一つの妄想であることを忘れてはなるまい。


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「忌日」

毎日がだれかの忌日草いきれ

浮いてこい子に鎹の蒙古斑

蝸牛アリバイのなほ続きをり

月影のしづけさにあり蟻地獄

逃げてゆく父かもしれぬ小蜘蛛かな

黄泉路ゆく牛車待つかに涼みをり

渡御過ぎて俄かに暮るゝ家の前

従兄なる恥かしきもの西瓜喰ふ

本山の寺領に老いて水を打つ

凌霄花空に血を吐くことをして

わたし一人の仏の母の青林檎





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「石の思ひ」

台風の近づいてゐる簾かな

臍曲げてゐるらし扇風機唸る

妻といふさすらひものが髪洗ふ

遺品めく陶枕を捨てられもせず

恋人を生け捕りにゆく祭りかな

美しき誤解たづさへ夏帽子

生きてゐるうらさびしさを昼寝覚

夕焼けてみな曳かれゆくものばかり

黒南風や波たゝなはる竹生島

夾竹桃垣根越しなる恋をして




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「鬼燈市」

たつぷりと暮れて鬼燈市帰る

市中を鬼燈提げて兄妹

しのゝめの朝顔市を母子して

夜店より戻れば母のやさしさよ

夜濯ぎの妻の音きく枕かな

嘘をつき嘘を吐かれて心太

ステテコの父の余生が目に余る

寝て一畳坐して半畳黴臭き

夕立や妻と二人のひとさわぎ

滝落ちて窘められてゐる如し

草笛の父やまなざし遠くして

三伏の尻に注射を打たれをり










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