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zoom RSS 今日の法味飽満・食を施す?!

<<   作成日時 : 2014/08/01 20:42   >>

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三伏やおのれ励まし飯を喰ふ 玉宗

宗門ではお盆に行う法要を長い間、盂蘭盆施餓鬼会として定着していたが、施す者と施される者の間に尊卑貴賤の差異があったならば厳に戒むるべきことであるとして、「施餓鬼会」と言わずに「施食会」と改めた経緯がある。そんな古い話ではない。

よく知られているように、盂蘭盆会というのは目連尊者の孝道に由来し、施餓鬼は阿難尊者の救苦心によるといわれる。 孟蘭盆会と施餓鬼法要とは、本来その由来を異にするものだが、曹洞宗の盂蘭盆は、盂蘭盆会を含んだ施餓鬼供養が行なわれていると捉えてよいだろう。いづれにしても、亡者精霊へ「食」を施し、「法」を施す行為として一般には知られていよう。

ものに餓え、こころに餓え、自己に餓え、他己に餓え、生に餓え、死に餓え、生老病死に餓え、諸行無常に餓え、過去、現在、未来に餓え、餓えて已まないかのごとき人生。確かに、餓えそのものに尊卑はなかろう。もっと云えば、そこには亡者も生者もない。餓えているのは誰か?餓えとは何か?といった自問自答、脚下照顧があっても不都合はない。いのちとは戴きものであるとは誰もが言うが、いのちは施すものであることを知る者はそう多くはないかの様である。いのちは死すべきを避けられないと諦めるものは多いが、いのちは生きるべきこともまた避けられないものと謙虚になるものも又少ないのではないか。避けられない生、避けられない死。そこには摂取、搾取するばかりではなく、分け与えることによって育まれる命の豊饒さ、人生の深さ、心の平安があろう。

お寺では、ご飯をいただく時に飯台の隅に七粒のご飯・生飯(さぱ)を置き、冥界に施す習慣がある。食後、これを集めて池に撒いたりする。米のとぎ汁は勿論の事、剃った髪の毛さえ木の根元へ埋めたりする。地に返し、天に返す。万物同根の思念がある。同時成道の仏戒がある。本来貪ることの要らない飽満なるいのちがある。知足がある。

平たく申しても、わが命は多くの動物植物のいのちをいただき、限りない施しを受けているのだから、自己にある飢渇や貪りの心と依って来るところを顧みる応無所住而生其心の端的が求められる。施食だけではなく、ものを施し、心を施し、自を施し、他を施し、和顔愛語、一挙手一投足、喫茶喫飯、威儀即仏法、作法是宗旨の法施があり、自己体中に円かなる六度満行の行仏がある。

「布施とは貪らざること也」とは高祖のお諭しである。
本来余ることなく、欠けることなき、貪ることなきいのち一体の世界の住人であるわれら。すべてのいのちあるものへの思い遣り、自他一如の布施行。皆空度一切苦厄にして自未得度先度他誓願がある。貪る理由がないのである。これも又、仏弟子の真骨頂であると言っても過言ではあるまい。


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「炎天」

炎天を行かねばならぬ義理があり

荒星へ御陣乗太鼓ひた打ちぬ

鬼灯を鳴らせし兄の入る鬼籍

三伏の血を引きぬかれゐたりけり

帰省して大きな足となりにけり

同胞はみなちりぢりに蝉時雨

引き出しの中のわたくし雲の峰

経を誦む背なに涼しき風貰ふ

天道虫仇を討ちにゆくところ

後朝の枕引き寄す谷崎忌

真夜中の月にしひとり鳴く守宮



「芙蓉」

ゆらめいて風をいざなふ芙蓉かな

生贄の少年ひとり雲の峰

緑陰を漏れ聞こえくる和音かな

今頃誰に抱かれてをるやはたゝ神

海原に息継ぐ亀のここちかな

働かぬ蟻かもしれぬ背伸びして

猫の子の泪溢るゝ大欠伸

あかがねの憤怒の色に甲虫

夏萩の乱れもゆるき風の色

蟻の道キリコの街へ続きをり

生き狂ひ死に物狂ひして涼み



「無花果」

打水の風が俄かに地を這へる

血の色に干されし梅を日に晒し

無花果の妻が乳房のやはらかさ

裸子が魚のごとくに眠りをり

その奥に仮面の館凌霄花

人ごみの中の絶望草いきれ

死ぬる世に一人すずしき木陰あり

うつせみの声なき声が絶叫す

沢蟹や月の渚に浚はれて

押しも押されぬ先祖の墓を洗ひをり

帰省して躊躇ひがちに母を愛す














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