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zoom RSS 今日の以心伝心・住職と檀家の関係

<<   作成日時 : 2014/08/31 06:08   >>

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バッタ飛ぶ未練がましき辺りまで 玉宗


いうまでもなく、私的見解である。
住職にとって檀家とは三宝(仏法僧)住持の支えとなる鼎の一つであるが、もっと実際に即し、尚且つ実感として謂わせて貰えるのならば、私にとって檀家とは「同志」であってほしいと常々思っている。仏道という仏の方を向いて生きていこうと誓い、願って生きている者同士であるという眼差しがある。勿論、住職である私には仏弟子としてその先陣を切って仏の世界を歩む姿勢がなければならない。

檀家からの布施とは、そのような仏道を歩むための支えであり、励ましであり、喜捨であり、施主としての成仏の機縁なのである。そのような視点からも、布施とは貪る筋合いのものでないことは明確である。布施は仏弟子が「行」をするに支障を来さないための仏心両面の支援なのであり、それは又、施主それぞれの心次第のものである。本来的に他から強制されるべきものでもないし、一律で云々されるべきものではない。

理想的には私個人が布施を受けるに値する仏弟子であるかどうかだけが試されており、その辺は、どこの社会でも同じ信用の領域にして、現実的領域の問題であろう。
住職にとって檀家とは「同志」であるところから、もう一歩踏み込んで「家族」であってほしいとも思うのであるが、さて、檀家さんにしてみれば同志は選べるが、家族は選べないという実際もあるだろう。踏み込み過ぎても、踏みこまなさ過ぎても仏道に叶わない。その指針は、欲望に振り回されない生き方を志している人間であるという自覚を促すか否かである。

そのような方便力もまた住職たるものは試されていよう。身を捨て、心を捨て檀家に寄り添い尽す。卑屈になる理由もないが、傲慢でいい訳も毛頭ない。さて、わが檀家さんにはどのように私は受け止められているのだろう。
俳句ばかりしていて、などと陰口を叩かれているのかもしれない。人並以上の暮らしをしてなどと羨ましがられているのだろうか。或いは、憐れまれてでもいるだろうか。

いづれにしても、もっと欲少なく生きて、仏任せに生きていかなければと思う今日この頃である。


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「ゐるところ20句」

秋ひとり一人日暮れてゐるところ

名月に誑かされてゐるところ

鵙の贄夕日に煮えてゐるところ

蟷螂の仇を取りにいくところ

秋風に慰められてゐるところ

蛇穴にちょうど入つていくところ

秋の蛇湖を泳いでゆくところ

コスモスが風を手玉にとるところ

鶏頭がなんか怒つてゐるところ

先生が瓜を盗んでゐるところ

芒原風に揉まれてゐるところ

鳴子守厠へ立つていくところ

昼寝せし妻を跨いでゆくところ

衣被月が上つてくるところ

稲田より黒穂を抜いてゐるところ

とうすみの風に浮かれてゐるところ

朝霧を小僧が逃げてゆくところ

えのこ草風に呆けてゐるところ

稲雀うつらうつらとするところ

秋風にみぬちの洞が鳴るところ




「秋の草」

いつまでも蜻蛉についてこられても

置き去りにされし高さに秋の草

葛咲いて恋は山越え谷渡り

案山子より襤褸着て婆の出て来たり

えのころの毛虫のごとき指触り

踏ん張りもつくつく法師もういいべ

蟷螂の云はば身寄りのなき貌で

韮の花父を一人にしてをけず

かもじ草引き抜きけふも一人きり

虫籠に残る胡瓜の一欠片

おこぜ等の真面目な顔に吹きだしぬ








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