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zoom RSS 今日の愚痴・それって何のため、誰の為?!

<<   作成日時 : 2014/08/08 21:52   >>

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また一人秋の渚に来て坐る  玉宗


ときどき、いったい何のために、又、だれの為に俳句を作ったり、お坊さんをしているのだろうかと、わがことながら他人事のようにうんざりすることがある。否、正直に言えば、そのようなうんざり感は、人様のなりふり構わぬ生きざまに圧倒されての鼻白いでいると言った方が本当のところかもしれない。生きることはなんだかんだ言ってもやはり競争なのかと思うと尚更のことである。人を押しのけ、或いは無視し、或いは利用し、挙句に自分を売り込み、俺が、俺がとなにかにつけてしゃしゃり出たがる人間性。

俺なんかいなくても世の中なんともない、といった絶望と諦念と謙虚さを兼ね備えた人間など望むべくもないのか。というより、私自身がそうありたいと思っているのならば、一心不乱にそうありさえすればいいのだけれど、まあ、要するにときどき、眼差しが外へ向いて、人の人間性を論ったりする訳なのだろう。

「だれのために、何のために」

私は自らその為すところの思いや動機を代弁するのに、「人のため」とか、「社会のため」とか、果ては「仏道のため」とか、ついつい口にするのだが、静かにわが心根を観察してみれば、それが、自己の見栄や保身や根深い拘りなど、欲の世界の地平線上の話しに過ぎないのではないかと吾ことながらも猜疑心に苛まれることがよくある。私の存在が疑いもなく「公」なるものであったならば憚ることはないのだが、我が身一人の満足のために為す事を、「何々のため」という隠れ蓑を借りて正当化しているのではないのか。おまえはそれでいいんか、という一人のお坊さんとしては勿論、一人の人間としても、いつのころからか知れない内なる声がある。公的なものへ尽くさなければならんとでもいうような私的な、余りにも私的な声。

確かに、すべては自己の世界の様子であり、その為したり為さなかったりするところの因果応報は全て自己の為と言って間違いではない理屈がある。然し、実際のところその人生とはある意味競争であるといっても差し支えないものだ。自己を生きることは競争ではないという私の提言も、他の世界と一体としての様子の上からのことである。


それにしてもだ、善も悪も、慢心も卑屈も、自惚れも、すべておのづからなるものではある。そのような代物をすべて受け入れる器の大きさ、深さ、度量があるには越したことはない。我が身を可愛がるといったことも自然な本能のなりゆきである。目くじら立てるような代物でもない。他を欺き自己を欺く、他を買被り自己を買被る。他を蔑ろにし自己を蔑ろにする。他を侮り自己を侮る。そのように、ついつい「閉ざされた世界」を持ちたがるのが問題なのではないか。実につまらない世界である。狭い世界である。発展的でない世界である。

人間界隈の実相には慢心も卑屈も愚痴も妄想も必要とされてはいない筈である。私がどう生きるかによって「縁」の価値が決まる。他者や外の世界はさもあらばあれ、徹底的に自己の実相に親しく生きていくのであるに越したことはない。一人の世界を愛しみ、惜しみ、解放する。どこまでもおのれむなしく生きる。煩悩の世界に住して煩悩を越える。それをしも出家とは言うのである。


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「家族」

沖をゆく船に乗りたや実はまなす

嵩低き月の褥や生身魂

盆花を抱いて故郷の客となる

家を出し家族も揃ひ花煙草

急流に打たるゝ萩のしだれかな

捨てられしごとく花野に目覚めける

おほばこや擦り傷絶えぬ年の数

遠嶺に日を落してや秋薊

抜きんでて甲斐なき空よ葛の花

葛の葉に埋もれし能登の国境

姥捨ての道すがらなる鳥兜

水引の花うすうすとしっかりと

汝と生きるほかに欲なき桔梗かな













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