再生への旅

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zoom RSS 今日の諸行無常・中山純子という俳人

<<   作成日時 : 2014/09/01 08:46   >>

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潮騒や月に眠れる葛の花 玉宗

先日、元「風」同人であった中山純子氏が亡くなっていたことを知った。それも七月末に葬儀も済んでいるとのことだった。亨年87歳の御生涯だった純子先生については拙ブログでも以前紹介したことがあり、重複するかもしれないが追悼の思いで取り上げたい。

故・沢木欣一、その伴侶でもある故・細見綾子らと共に、戦後間もなく金沢という地方で立ちあげた今はなき俳句結社「風」草創期の同人・中山純子。沢木亡き後、終刊となった「風」であるが、去就に戸惑っていた私を聡して下さったことも懐かしい。氏には沢木氏の跡を継いで結社を守るといった意識はなかったようで、その後「風」の系譜に連なるいくつかの雑誌が生まれたが、中山氏はいくつかの結社の顧問的立場で満足し晩年を過ごしていたようである。

私は「風」、「万象」などで御一緒させて戴いた時期がある。同じ北陸出身、そして氏は以前「坊守」だったこともあり、お坊さんである私をかわいがって下さったものである。飾らず、偉ぶらないそのお人柄ではあるが、俳句実作に於いては自己にも他者にも厳しい裸眼をお持ちの方であった。その作品はどちらかと云えば、感性に重きを置いた細見綾子先生と通じるものがあり私などは憧れていたのである。私のようなものにとっては亡くなられた沢木先生と同等に位置する大先輩であった。

氏は病弱の身を養っていた若い頃に、沢木欣一、細見綾子両先生に親炙し、その瑞々しい感性の句は、社会性俳句、風土俳句などと言われた「風」俳句の中で、純子先生の俳句は即物具象の手法を用いながら人間・中山純子独自の対象把握、切り込み、放神があった。作者でなくても誰であっても構わないような単なる写生俳句ではない。その作品に私は「風」のころから魅了されていた。

私の第一句集『雪安居』出版記念祝賀会というものが輪島で開かれた時のことである。同人になって間もない私のために、金沢からお仲間を連れてわざわざ出席してくださった。その席で私は句集のあとがきにも書いたような、出家と俳句作りへの拘りを挨拶の中で語った。出家することが真に自由な生き方をしたかったからだという、私の言い分は中々まわりの人達には理解してもらえていなかったが、式後、純子先生は私の傍にこられ次のようなことをいわれた。

「お話しを聞いて、あなたという人間・市堀玉宗、お坊さん・市堀玉宗がよくわかりましたよ。頑張ってね。」

在家の人、それも俳人にそのようなことをいわれたのは初めてであった。ファンである純子先生本人にそのように言われ私は心底嬉しかった。俳句の総合誌上で私の俳句に対して「お坊さんであることに甘えている」という批評をある俳人から貰ったことがある。「お坊さんであることの甘えがあるのならば、お坊さんでないことの甘えもあるだろうに。」という思いで過ごしていた私にとって中山純子先生の存在は、人間・市堀玉宗として評価してくださる先達が現われたということなのである。

嘗て中山先生はお寺の坊守だった。住職亡き後、子育てや御自身の病気など、苦労を重ねられ、その後お寺を出られたという。(人から聞いた話しだが。)先生にはそのような苦労人の翳のようなものは微塵も見当たらないが、人生の表裏を知り尽くしたものの芯の強さと柔軟さが同居していた。そんな先生から、調子にのって第二句集『面目』を出した折に戴いた忘れられない言葉がある。

「あなたの句には個臭があります。それは文芸における真の個性、オリジナリティーとは違うものです。御自愛下さいね。」

その後、「風」主宰・沢木欣一先生が亡くなられ、「風」は終刊となる。誰が「風」の本流を継承するのか。自薦で主宰になり、新しい俳誌を立ち上げるので同人として参加してほしいという依頼が二、三あった。どうしていいのか解らず、中山先生に電話をしたら、「じっとしていなさい。そのうちどうにかなるから。」呑気なところもおありなのである。結局、「万象」「白山」「栴檀」等が衛星誌としてたちあがった。金沢の「白山」からは声が掛らなかったので、当初私は東京の「万象」にお世話になっていた。しかし、内心は中山先生に主宰となる俳誌をもってほしかったのである。

その後、私は「万象」からも離れることになるのだが、氏も嘗て受賞された金沢市民文学賞の祝賀会にも駆けつけて下さり、親しみのある金沢弁で受賞を喜んで下さった。輪島の「風」同人の葬式に列席した折には、思わず先生の頬を両手で摩り久濶を表してしまい、心ならずも違う結社で俳句を続けることになってしまった思いを爆発させてしまった。その後御無沙汰していたが、被災に際してはあたたかいお見舞いの言葉をいただいていた。

純子先生は坊守をやめられた後再婚なされ金沢で息災に暮されいた。年賀状だけのやりとりだけになってしまっていたが、いつであったか、ふらりと立ち寄ったかつて坊守をされていた羽咋の妙成寺に純子先生の句碑がひっそりと建っていたのには感慨深いものがあった。

生涯の句集は『茜』、『紗羅』、『瑤珞』、『華鬘』、『晩晴』、『水鏡』の6句集である。


 

胎の子と寝足りし手足わらび山
一子得てわかき灯洩らす雪の寺
夜道たのし子を持ち金魚玉を買ひ
山晴れて父の死にとぶ大やんま
若死のあとさき大暑変らざる
鍋の底まで小春死後五十日
人肌のごと小春日が墓を抱く

初秋や飯粒を踏むあしのうら
春そこに戸をしめる音あける音
栗拾ふことを墓参のなかに入れ
青葉して針箱の中貝釦
西行堂うすももいろの芽立ちかな
持国天おん臍に吹く植田かぜ
鈴振つて海わたり来る秋遍路

てのひらに包みて母へ初ぼたる
かりがねや明日につながることをして
冬が来る木綿一枚着古して
三月の日記びつしり生きること
身一つの祷りは小さし小鳥来る

かほを撫で死出の旅路の足袋はかす
雪二日晴れ二日もう母居らず
母おくりたるあと春はゆつくりと
一粒の大粒の艶丹波栗
喪の冬よ古九谷の黄もむらさきも
白山の初冠雪を逝れけり

生涯のおほかた終へぬ春一番
チューリップ校歌はいつも高らかに
野辺送り行く手行く手に桜咲き
灌仏のひきもきらずに豊かな日
引鳥やみはるかすその深き空
炒豆を鳩とわかちて灌仏会
逃げ水のやうな寝食共にかな

青大将日本晴をぶらさがり
ひだるさの風に吹かるる蛇の衣
川の名を二つおぼえて螢狩
食卓が見え出目金のひらひらす
八十の早起き若葉に手がとどく
マンゴーのごとき子供ら海青し
昭和かつてハンカチ白く振りしかな
夜の秋子供が肩に来ることも

胸深くことばが育つ一位の実
針に糸灯下親しむかほをせり
みどりごを回し抱きして盆供養
線香のけむりが折れる秋のかぜ
老いにけり西瓜抱へて揺れるバス
水鏡八月六日夢も見ず
おとがひを上へあげよと雁の列

風呂吹きを温めなほししだけのこと
父の墓山はねむりて大いなる
干しぜんまい水にもどして雪の日よ
事多く十一月も疲れけり
白鳥を見ての帰りの月の駅
夕方は綿虫のとぶ癒しの空



氏の言葉に「実人生」というのがある。俳句が実人生を支えてきたというのである。そのような氏の作品には実人生を尊重して得た写生の詩はあるが、観念が先行するという意味での嘘がない。すべて氏の純粋な感性の表出であり、結晶であり、把握した詩の世界である。それは氏の俳諧の誠なのであり、それが実人生をも支えて来たということなのである。

放逸に流されず、定型化された感性の真善美、というものがある。私は氏の作品にそのような信頼感、豊かさを常に抱いていた。人生の山河を逞しく、そして柔軟に生きられた中山純子先生のご冥福を祈らずにはいられない。合掌。

著者略歴

中山純子(なかやま じゅんこ)
昭和二年金沢市生まれ。「風」終刊まで澤木欣一に師事。現在「万象」「風港」顧問。俳人協会名誉会員。日本藝家協会会員。日本現代詩歌文学館評議員。句集『茜』『沙羅』『瓔珞』『華鬘』『晩晴』、俳人協会賞。泉鏡花記念金沢市民文学賞。石川テレビ賞、など。

「故澤木欣一・細見綾子を師とし、昭和24年「風」に投句をはじめて60年余、過ぎてみれば長くも短くもおもえる時間であったが、俳句はどんな時も私の実人生を支えてくれていたと感謝している。昨夏、「心不全」という病名で病み、今もおぼつかない日々であるが、云々」(第6句集『水鏡』あとがきより)




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「秋思」

秋思いまじんべい鮫を見てゐたる

合戦の河原に出でて石叩

無花果といふ腫れものが食べ頃に

バッタ飛ぶ未練がましき辺りまで

蜻蛉のかまつてくれと云はむばかり

はたはたのまなこ澄みゆく山河あり

腸の中は暗黒鮎落ちぬ

天高く奈落の空がありにけり

鶏頭の云わば当為を逸脱し

生きながら色なき風に死ぬるかな













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