再生への旅

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zoom RSS 今日の身心脱落・自己に出会う

<<   作成日時 : 2014/09/22 12:55   >>

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雲とゆく家路も秋の彼岸かな 玉宗

秋彼岸日和とでも言うような穏やかな日が続いている。
例年この時期は大本山総持寺祖院の恒期法要である「御征忌」が催されるのであるが、今年は六月に前倒しされたためいつになく暇な九月を過ごしている。連日、お寺の裏庭の掃き掃除をし、焚き火。風も穏やかなので焚火の煙も秋空へ真直ぐ上がっていき、隣近所に気兼ねすることもない。

その祖院であるが、堂長でもある監院が交代し、前総持寺後堂・鈴木老師が就任された。専門僧堂でもある祖院は監院が堂長師家でもあり、僧堂組織の指導者トップとして僧堂教育や管理を任されている。

僧堂とは宗門の教育機関の一つであるが、地方僧堂に比べ本山僧堂は管理職も多く、師家と呼ばれる人材も住職一人とは限らない。指導者が多くいることの恩恵もあろうが、船頭多くして山に登るの虞もなくはなかろう。祖院僧堂だけみても、この20年で七人の監院老師が出入りしている。また、山内には役寮と呼ばれる管理職の老師が数名居り、交代することもなく長年に亘って出仕されている。そういう方々は地元出身である場合が多い。

地方僧堂では住職でもある師家が一代に亘って雲水を指導することも少なくないだろう。それは換言すれば、1人の師家の全生涯、全人格を学ぶ機会に恵まれているということでもあろう。本山僧堂の場合は任期があり、継勤されることもあるが、生涯に亘って指導を受けることもないし、雲水自身が数年で山を降りるというのが現状である。

本来、参学の指導者は学人が自らの足で選び、その堂奥に分け入っていく筋合いのものである。本山僧堂であろうが、地方僧堂であろうが、本物の指導者に出会いたければ、学人自らの責任に於いて尋ねるべきものである。
わが弟子にそれほどの熱い志し、参禅の志意気があるかどうか。一人前の仏弟子、一人前の社会人、自立した仏弟子、自立した社会人になるための自助努力と出会い。本物にめぐり合うことも一大事であるが、本物を志向するまなざし、衝天の志意気こそが求められる世界。それはどの社会でも同様であろう。

参禅とは自己に出会う道程であり、自己が本物になるのであり、本物の自己を知るのであり、無私にして無限大なる自己に目覚めるのであり、自己が自己に落着することを言うのである。指導者、わが師とはなにも僧堂だけに常在するものでもない。世の中は、在家出家に関わらず、われ以外みな我が師であ現実がある。自己がある。他己がある。無師独悟がある。自証三昧がある。仏性三昧がある。学而即知自己がある。人生とは学び以外のなにものでもない。


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「秋彼岸二十句」

さびしらの影引く秋の彼岸かな

死ぬる世を色なき風に励まされ

とどまればわが身に帰る野菊かな

逃げ回る羽の強さよ稲雀

蛇穴にこころ赦せる友なくて

屈葬の深さ自然薯掘り上ぐる

八つ頭見目の悪きが取り柄なる

この秋思風が運んで来たるかと

暁に棹さす雁の渡りかな

盲ひたるごとく秋蝶舞ひ来たる

必死さのいさゝか足りず稲雀

身に入みてほとほと冥き五体かな

あさぼらけ免れがたき芋の露

稲架日和はち切れさうな布袋様

ブランコの影宙に浮く秋彼岸

鳥のみちけふは雲ゆく鬼薊

満ち足りて眠たさうなる稲雀

錫杖を先立てゝゆく蜻蛉かな

かたまつていやちらばつて彼岸花

叱られて空稲架下りるゆふべかな



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「雀蛤」

海に入る別れも近き雀かな

蛤に雀の斑あり泣きにけり

秋寂びてつむじ風さへなつかしき

烏瓜はち切れさうな痛さうな

新米を運ぶに加担せよといふ

妻とふたり釣瓶落しを嘆くさへ

二人ゐてふたりの孤独花野径

嫁浚ふ豆打つ母を置き去りに

死して星に生きて野分となる身かな

みちのくの海は涯なし鮭颪

夜や更けて星の鳴りだす村芝居









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