再生への旅

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zoom RSS 今日の威儀即仏法・紅葉且つ散る掃き作務の頃

<<   作成日時 : 2014/09/27 18:51   >>

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くわりんの実月に尻向け太りけり 玉宗

境内の紅葉もまだ見頃にはほど遠いがそれでも大風の後の桜落葉やタブの木などの常木落葉、そしてまだ青いままの銀杏落葉などが目に付くようになった。萩の葉の紅葉も未だしだが、花屑がけっこう乱雑を極める。掃き作務も本番へ向けて助走が始まったという感じである。

今日、27日は永福寺先代の月命日逮夜である。毎月寺族共々、逮夜のお勤めをして欠かしたことがない。その先代住職である義父は九十四歳で能登半島地震の二年前に遷化した。
九十になっても天気の良い日は竹箒を以って境内の掃き作務に精を出していたものである。そのような先代の姿は町内の皆の目に止まっていたようで、折に触れてその精進さを語ってくれる人に出会う事がある。

説教師ではなかったが、明治生まれの謂わば古仏然とした威厳と包容力があった。昔の禅僧は文字通り教外別伝の宗旨を地でいくようなところがあり、お説教が下手でも、日常生活をまっすぐ威儀正しく率先して行じることで潔しとする、といったところがあったように思う。

坐禅と作務と托鉢。禅僧はその三つさえできればいい、という教え?を真に享けて、学歴も僧歴も貧ずしい私などは形だけでも後ろ指さされないようにとこころしてきたつもりであるが、さて、先代が今の私にどれほどの評価を与えてくれるものか覚束ない。俳句にうつつを抜かしてお経の勉強も疎かにしているような始末。そんな不肖の弟子を持って草葉の陰で泣いているのではと思う事がしばしばある。わが弟子も又、こんな師匠を目の当たりにして、どのような思いでいることやら。

恐ろしくも、有難くも、世代を越えて、繋がるものがある。誤魔化しの利かない「業」といったもの。それを強く感じることがある。それは自分持ちのものではあるが、本来「業」そのもには白黒の色は着いていない。わが「業」を白にするのも、黒にするのも私の生き方次第。よくよく心してこれに過ぎるということはない。住職以外の肩書きもない唯のお坊さんであるが比べれば愚痴になる。私は私である以外に私を越える術を知らない。

何事も余念を交えず、事に当たり、理に当たり、まっすぐ生きる。無為の法に生きるしか成仏の行方はあるまいと思っている。



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「野分過ぎ」

鶺鴒の谺もならぬ嵐山

蜻蛉追ふ四条河原の橋の上

鳴きもせず秋蚊虚ろに打たれけり

決めかねてゐたる野分の過ぎるまで

露草や大事なことをさり気なく

後悔の押し寄せてくる芒かな

悪くないあぢさゐ寺の曼珠沙華

ひもすがら色なき風をきくばかり

秋の雲ひとりに慣れてしまひけり

竈の火落してよりのつづれさせ

死にたがる母の手にのす栗おこわ

身に入むや風を招きし草の丈



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「序の口」

秋場所の序の口にして散る柳

父といふうらさびしさにちんちろりん

月に鳴くさながら旅のきりぎりす

秋夕焼空に影するものもなし

あゝでもないこうでもないと石たゝき

死ぬことが土手の南瓜であつたなら

銀漢を滑り落ちたる憂ひあり

バスを待つ上の空にて鳥渡る

顔だけが義経である菊人形

坂がかる旅の途中や虚栗

ポケツトにひとゝき眠る木の実かな

生きながらいのち枯れゆくいぼむしり

梨喰うて少し重たくなりにけり



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「桐一葉」

落ちてすぐ走りだしたる一葉かな

廃校の丈になりたる草紅葉

和箪笥に眠るアルバム秋夕焼

花札の裏は真つ黒蛇穴に

お螻蛄鳴く腕立て伏せをしてをれば

星月夜遺すものとてなかりけり

暮れてゆく水の音して下り簗

拭かれたる窓に嵌めたる秋の空

ふところに入るは秋の風ばかり

いふことをきかぬ右脳や胡桃揉む

たらちねの母の鼻唄障子貼り

栗飯の湯気ゆたかなる忌日かな






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