再生への旅

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zoom RSS 興禅寺寺報9月号

<<   作成日時 : 2014/09/06 19:26   >>

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慌てない雀が稲をよく食うて 玉宗


1、 住職にとって檀家とは三宝(仏法僧)住持の支えとなる鼎の一つですが、私にとって檀家とは「同志」であってほしいと常々思っています。仏道という仏の方を向いて生きていこうと誓い、願って生きている者同士であるという思いがあります。勿論、住職である私には仏弟子としてその先陣を切って仏の世界を歩む姿勢がなければなりません。

 檀家からの布施とは、そのような仏道を歩むための支えであり、励ましであり、喜捨であり、成仏の機縁でもあります。そのような視点からも、布施とは貪る筋合いのものでないことは明確です。布施は仏弟子が「行」をするに支障を来さないための仏心両面の支援なのであり、それは又、施主それぞれの心次第のものです。本来的に他から強制されるべきものでもないし、一律で云々されるべきものではありません。私個人が布施を受けるに値する仏弟子であるかどうかだけが試されており、その辺は、どこの社会でも同じ信用の領域にして、現実的領域の問題です。

 住職にとって檀家とは「同志」であるところから、もう一歩踏み込んで「家族」であってほしいとも思いもしますが、さて、檀家さんにしてみれば同志は選べるが、家族は選べないというためらいもありましょう。踏み込み過ぎても、踏みこまなさ過ぎてもいけません。その指針は、欲望に振り回されない生き方を志している人間であるという自覚を促すか否かです。

 住職であるとはどういうことか。檀家であるということはどういうことか。お互いに卑屈になる理由もありませんが、傲慢でいい訳もありません。諸行無常の人生をどう生きて行くのか。その姿勢を正すのに老いも若きもありません。お寺とは本来そのような志あるものの為の場なのです。


   
2、お盆、秋祭りも過ぎて、仲秋の頃となってまいりました。秋風にもの思うことの多い今日この頃です。みなさん、お変わりありませんか。

以前、二十四時間テレビで盲目の少女が語った言葉が印象的でした。
「私は自分が障害者だとは思っていません。みんな人間には得意不得意があると思うんです。私は人より見る事が苦手なだけです。」

健常者であることによって見えなくなったり感じる事ができなくなるものがあるようです。貧しさが生きる力を育てる事もあり、逆境と思える事が再生への展望台になり、飛躍の踏み台となることもあるでしょう。そしてまたその逆も。どのような境遇にあっても、生きることへの謙虚で前向きな姿勢で生きている人がいます。水や風のような柔軟な心の持ち主。それは人より苦手なものを抱えて生きるために神様が与えた心の強かさ、柔らかさのように見えてきます。

諸行無常、一切皆苦の人生から学ぶべきことは、人生をあきらめない、謙虚さではないでしょうか。いのちお大事に、合掌。



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「叩く音」

ポケットを探れば帰る燕かな

啄木鳥の棺を叩く音のして

稲架掛けの一部始終を見て飽きず

傍らにいつも芒がゐたやうな

青空を叩く音して咲くオクラ

枝豆や引くに引けざる人生の

父母のあらそひ哀し蛍草

悪い子を叩く音して栗落ちぬ

妻が刃南瓜に向かふ安堵かな

秋驟雨背中を叩く音させて

日の力少しおとろえ貴船菊

石榴弾けむ胸板叩く音に似て

継母のさびしさに蒔く大根かな


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「芭蕉」

収拾がつかず芭蕉の破れけり

鶏頭の凡その数としてありぬ

手折りたる枝に紫式部の実

石榴眩しき村に一つの診療所

棗の実喰へぬ男がたもとほる

栗落ちてしまへり謎の解けぬ間に

きりぎりすわが月影に驚きぬ

だうしようつくつく法師日が暮れる

脚垂れて飛んでみせたるすいとかな

ふにやふにやの枕は嫌ひがちやがちやも


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「稲架襖」

みよちやんと恋せし稲架の襖越し

嗜みや鵙さへ贄を差し置くを

能登沖を走る白波小豆稲架

あららぎやふるさと帰る由もなく

運動会空に声して競ひけり

死ぬる世に秘めごと多しおけら鳴く

青きまゝ落ちたる栗が坂の上

鰯雲この世に二人子を遺し

生きながら伝説となり八頭

生涯に詩集一冊蛇穴に















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