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zoom RSS 今日の教外別伝・行雲流水の生き方

<<   作成日時 : 2014/09/08 19:01   >>

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明日の空へ引き揚げてゆく秋の雲 玉宗


「雲水」という言葉は「行雲流水」又は、「雲心水意」の略である。「雲衲霞袂」とう言葉もある。禅の修行者のことを「雲水」と呼ぶが、行く雲流れる水のごとき自在な境地であらねばならないというところからきている。逆に、留まるということは執着するということに他ならず、理想的には身心の束縛を解き放つこと、それが仏弟子の面目であり、真の自由人たる所以ではなかろうかと思っている。雲は空を流れて滞ることなく、水も瞬時として留まることなく、いずこともなく消えてゆく。時々刻々、さし障りなく今を生きていく。身も心も投げ出して無常に徹するという「清浄行」が「行雲流水」の本質として貫かれていよう。

私が「雲水」という言葉を知ったのは出家した後のことである。仏弟子としての姿を端的に言い現わしており、憧れの生き様となっていった。雲水貴族という洒落た言葉もある。まだ独身だった大乗寺時代の私などは肩で風を切って生きている様な雲水だった。仏の顔も三度までなどどこ吹く風の怖いものしらず。思えば汗顔の至りであるが、なんか妙に懐かしくもあるのはどうしたことか。今ではお寺の住職という定住漂白の身となってはいるが、三衣一鉢で、身も心も軽く生きる、そのような「生涯雲水」が本望であることに変わりはない。

しかし、云うは易く、雲水の道は厳しいものである。すべての執着、束縛を擲つことが容易であろう筈もない。それほどまでにしなければ、本当の自在の境地は得られないということ。そのような自己確立の孤高な生き方が「行雲流水」には込められていることを人は見落としがちである。物見遊山の気楽な道行ではない。「雲水」としての生き方を困難にさせるものはなんだろうか?言い方を替えるならば、命の自在さを妨げるもの、それは何だろうか?

鈴木大拙の言葉として伝えられている次のような示唆を忘れられないでいる。真の自由とは何か、という設問に対して大拙は、肘を指して屈伸させてみせたという。

「肘に関節があることによって私は自由に腕を動かすことができる。」

命には生老病死という関節がある。無常という骨がある。関節や骨がない五体など考えられない。それはすでに五体を成してさえいない。生老病死や無常という関節・骨があることによって私は命を自在ならしむる。というより、命は本来的に自在であり、「私」の執着を離れている。執着も「私」という妄想のなせる業である。無縄自縛、有縄自縛、有無透脱の自縛他縛をわがものとする。それこそが雲水の醍醐味なのだろう。単なるボヘミアンでも、漂泊者であろう筈もない。

「捨」の実践を「行」ともいう。身を捨て、心を捨てる解縛の道。「行仏」は必ず「威儀」を具足するというのが宗門の習いである。雲水であろうが、住職であろうが、自己を縛するのではなく、自在ならしむる「捨」であり「威儀」でなければならない。「行」は人の数ほどある。雲心水意に適っているかどうか。本物であるかどうか。本物だけがそれに感応するだろう。

雲水のこころ、それは仏弟子としての初心であり、全てである。


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「花野」

清流に足をふんばり鰍突く

小鳥来て露けき窓のあるばかり

祭り過ぎたる麓に鵙の高音かな

生きてきた妻と花野を歩くため

懸巣来て樫の実一つ食みそこね

月の森手負ひの猪が傷舐めて

稲雀秋葉神社に来て遊び

草は穂に気ままに生きて空しかりけり

鰯来とざはざはしたる海の色

抜きんでてみてもやつぱりねこじやらし


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「十五夜」

月満ちて妻がときどき帰りたがる

しづけさの一木一草月祀る

がうがうと月を孕める夜の雲

牛車待つごとくに月を祀りけり

真夜中の月にしがなき用を足す

浦かけて月のさざなみ衣被

二階から声かけらるゝ良夜かな

夜の風月より吹いて来たるかと

鈴鳴らし猫が素通る白露かな

能登はやさしや家族のやうに稲雀

大気圏外は常闇虫しぐれ

戸一枚隔つ白露の外厠

化け損なうて後ろ髪引く尾花かな








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