再生への旅

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zoom RSS 今日の寂滅為楽・絶望と希望のはざ間で

<<   作成日時 : 2014/09/13 18:32   >>

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毒茸と決めて遠のく人の声 玉宗


生きながらえて見えるものがあろう。また、見えなくなったものがあるだろう。沖に進めば見えて来るものがある。見えなくなってしまった陸もあるだろう。それもこれ、人生という旅の途中の話である。引き返すことも、中断することも叶わない人生の歩み。大凡の見当はつくと雖も、いつ果てるとも知れない人生の歩み。

然し、今、ここに展開している空がある。雲がある。風がある。息吹がある。出会いがある。別れがある。諸行無常の今がある。それをしも「わたし」とは言う。

人生の山河とは本人が乗り越えられるものを神は与えたのだと云う。それはつまり人生とは私の世界の様子以外のなにものでもないという極めて当たり前の事実。そこは本来比べることのできない領域であろう。人の世は比べてなんぼのものだ、という現実も確かにあるが、それがいのちの価値の全てだと誰が強制しているというのか。

人生の山河の途上で、ときに絶望し、再生し、希望に生きる。人は人として生まれて来たのではない。人になるために生れてきたのだ。人になるために生きていくのだ。人になるために死ななければならんのだ。そして、その山河の道程と風景は、まさに人それぞれの脚力と視力と想像力の賜なのである。そのような自己が自己に落ち着くことの以外の、どこに限りあるいのちを生きる人間の安心立命があるのだろうか。絶望と希望のはざ間で、揺れ動きながらも、今を精一杯いきる。諸行無常の現実に足を踏ん張りながらも、欲望の彼岸へ遠い眼差しを向けて生きる。なんの恥じることがあろうか。



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「面影」

面影やいつもの道に咲く野菊

紅葉して文読む如く且つ散りぬ

月夜茸森の木漏れ日海のやう

露草の終ひの色といふべかり

野に出れば誰も旅人草の花

花野より戻れば家の冷たさよ

山の日のうつろひやくす山葡萄

山暮れて夜が被さる虫の声

寄り添ひて月に太りし秋子かな

あの雲に乗り遅れたるいぼむしり



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「かほ」

石仏の顔もとどめず秋の風

かんばせのみななしくずし露しぐれ

自然薯掘り墓を暴くといふ貌で

柿を手にしたるうれしさ人に会ふ

栗落ちてこの世の影を同じうす

追伸のごとく秋虹消えやすく

鶏頭の火の手が飛び火しておりぬ

山門に裏表あり秋時雨

信濃路や空の果てまで蕎麦の花

糸瓜より無様に生きてゐるらしく

側室に一号二号いなびかり

秋渚ときどき狂ふ母を連れ












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