再生への旅

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zoom RSS 今日の羊頭狗肉・俳句の覚悟

<<   作成日時 : 2014/09/14 20:44   >>

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萩に風どいてくれろと云はむばかり 玉宗



 人生とは未だ見ざる時の扉を開けて存在の手応えを求めることに他ならない。多少扉の軋みも聞こえる。そんな私に俳句は己を恃む為に懐中に潜ませた匕首のようなものだったといえば大袈裟か。或いは社会的にも決して器用には思えない人間が俳句という手鏡を持って人生という時の扉の前に立っている。俳句はまるで「時の扉」を押し開いたアリバイ証明のようなものであったか。誰も応えてくれぬ故のモノローグなのか。

 文芸という自得の苦しみ、醍醐味。内と外の世界に溢れる声なき声に俳句は応えてくれるだろうか。落葉を踏む音も、薄氷の危うさも、目刺の生々しさも、紅葉の乾きも、無花果の甘味も、色なき風も、みなわが心の洞に響くのである。誤魔化しようのない、生きている今の私のいのち、言葉と共にある存在の確かさ。内面への眼差しが外へと転じてゆく。それは私にとって極めて当たり前のいのちの様子である。

 「時」とは生きている今の事実のこと。「扉」とは過去とか未来とかいう思念の産物である。いつもかけがえのない己であったのだという諦念がなくて「時の扉」などと言ってみたところで空しいばかりだ。
「この世でたったひとりのわれを詠う」とは孤立することではなかった。自立とは他者を受け入れることに他ならない。いのちを慈しむことが出来ない人間に詩人の資格などあろう筈もない。俳句は畢竟、己を語ることではなかった。何かを感じることだ。

 過ぎ去ったときも掛け替えのない私のいのちだったのであり、未来を夢見で前を向く今のわたしのいのちがある。そのような私かぎりの今を引き受けることに何の遠慮もいらない。そのような人生への自在さ、拘りの無さ、好奇心、一体観があっていいだろう。神様だってそれを咎めはしない。忘れてはならないのは、詩心が存在の儚さを介して通ずるほかない現実。人は言葉と共に存在の手応えに共感する。詩人の表現者としての存在意義は其処にしかなかろう。更なる感性の飛躍を、何気ない日常底に。


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「新涼」

新涼といふには年を取り過ぎて

昼からは日陰の村よ胡麻叩く

風に混み合ひ風にほどけて萩の花

雲水の面変りしてもみづれる

無花果のはち切れさうでならぬなり

曼珠沙華咲いてしまつたといふ風に

鬼灯や家族といふは遺族なる

秋茄子や撃てば響ける峡の空

コスモスの暗さの無きが難儀なる

掃き寄せし塵の中よりいぼむしり

柿の秋空に翳りのなかりけり









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