再生への旅

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zoom RSS 正岡子規という生き方・再掲

<<   作成日時 : 2014/09/17 18:21   >>

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コスモスの咲いてだうでもよくなりぬ 玉宗

正岡子規は戊辰戦争の直前慶応三年(1867年)10月14日(陽暦)に生まれ、日露戦争の二年前に亡くなっている。
生まれた年には徳川慶喜が大政を奉還し、王政復古の号令が発せらた。子規は明治維新という前代未聞のどえらい時に生まれたのである。子規は明治の子であった。子規の満年齢は明治の年号と一致している。「俳句分類」に着手したのが明治24年、小説「月の都」を露伴に見せて失望させられたのが25年。新聞「日本」に入社し、大学を中退する。初めて俳句を作ったのが18年、本格的に俳句に乗り出したのが24、5年頃である。

そして明治28年には日清戦争に従軍し宿痾を得て帰国する。それもこれも、国を挙げての大戦争に新聞記者として参加しなければ男子一生の名折れになるという気概と、文筆の上で名を挙げたいという思いからであっただろう。若々しい明治日本の申し子であった。

子規は愛媛県伊予温泉郡藤原新町に生まれた。幼名・処之介、のち升と改名。本名・常規。父・隼太は松山藩御馬廻加番という藩主の親衛隊、下級武士である。伊予松山藩は徳川家の出であり、幕末には幕府方について負けている。維新後官軍となった土佐藩が進駐し賠償金を払わされた。その後の版籍奉還、廃藩置県。藩は解体し、武士は士族となり家禄を還し、一時金を支給され解雇された。明治5年、子規六歳のときに一家を支える父が亡くなり、その後生活が苦しくなっていったのである。

子規の母・八重は松山藩お抱えの儒学者大原観山の娘であり、父の死後は観山が正岡家の面倒をみることになった。観山は儒家であり、断髪令が出ていたにもかかわらず随わず、子規にも断髪を許さなかった。子規は十歳頃まで外出の際には帯刀していたという。

子規八歳のときに観山が亡くなり、後輩の土屋久明に漢文を習う。五経、史記、春秋、日本外史などの素読、漢詩の手ほどきをうけた。
子規の思考の展開の、極めて合理的、実証的なものである一方で、観山などに受けた教育環境が影響していることを指摘している識者もいる。
明治十年には西南戦争。自由民権運動が高まりをみせてゆく。愛媛に於いても騒然とした情勢の埒外に居ることはできなかった。子規も又、中学生になると演説会のメンバーとなり、演説に熱中し、「民権自由雑誌」という政治雑誌の創刊を企てるほどであった。

その後、東京に出る子規。政治への関心は次第に冷え、哲学に興味を示し、文学を志し、小説家にならんともしたが、運命のように詩歌の道へ引き込まれてゆくのである。子規の俳句や短歌の革新には、このような彼の中にある時代精神の反映であることを思わずにはいられない。「俳句分類」から自得した文芸の革新。月並みを排撃したのも、写生・写実に徹底したのも、明治の申し子・維新の子正岡子規の文学精神の新風に他ならない。

糸瓜咲て痰のつまりし佛かな
痰一斗糸瓜の水も間に合はず
をとゝひのへちまの水も取らざりき


子規末期の三句、これは士族でもあり、文士でもあった子規の切腹、掻っ捌いて見せた腸の叫びである。子規を見ていると明治という時代のそのものを見ているような思いになってくる。

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鶏頭の十四五本もありぬべし

子規庵での触目句の一つであるそうだが、即興感偶の最短定型が掬いとった鶏頭の何気ないまでの存在感が魅力である。実感を追及した目の自然さ、そのような無造作な把握の面白さがこの鶏頭の句にはある。虚子はこの句を認めなかった。彼の客観写生と花鳥諷詠は、子規写生とは明らかに趣が違うことがこの経緯からしても理解できる。虚子は「ありぬべし」に観念臭を感じたのだろうか。しかし、「ありぬべし」は観念というより、「感性の呟き」ではないか。

子規にはもののいのちを見通すような子供のような無垢な、裸眼・写生眼がある。虚子には良くも悪くも大人然たる、鷹揚な、曇りの掛ったような色眼鏡の長閑さ・柔らかさ・無責任さがある。どちらもものや命の本質・深さに触れているには違いないが、限りある命を日々実感せざるを得なかった子規の句には、後に引けないのっぴきなさがあり、そして感極まったような何気なさがある。「ありぬべし」という表現も、存在への拘りを投げ出しているような趣が私には感じられる。

子規の俳句には子規自身の紛れもない感動が素直に、自然に、無造作に、さっぱりと表現されている。世にその大半の作品が駄作の山であると言われることもあるのだが、あの限られた、病状六尺の世界から多くの「写生の駄作」を作ることは、奇跡的でさえあるだろう。というより、子規の「駄作」は俳句革新途上の「駄作」であり、決して従来の「月並みな句」ではない。「写生」は死と向き合う日常であった子規にして成し得た表現の可能性であり、掬いであっただろう。それは文芸におけるリアリズムの奇跡であったのかもしれない。重くれた観念句に陥りやすい人間には信じ難い無造作な「実の世界」である。

子規はそれを死の間際まで表現し続けた。絶筆である「糸瓜の句・三句」は、そのような子規が後世に遺した俳句の可能性であり、新しい典型だったのであり、一世一代の名句であり続けるだろうと私は思っている。現代俳句は子規の「写生」を笑うがごときであるが、彼は「俳句」という匕首を以って時代へ切り込み、時代と戦い、時代を切り開いたのである。現代俳人の誰が俳句革新の可能性を担って時代との心中も辞さないでいるだろうか。今だから言えることではあるのだろうが、そういう意味では、子規は秋山兄弟に負けない、時代の寵児、申し子であった人物であることを強く感じるのである。



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「彼岸花」

秋天へ真つ逆さまに立ちつくし

椿の実未生以前の硬さあり

目に触るゝものみなはるか草は穂に

片づけて置こうか月の出る前に

行き処なきものの如くに彼岸花

三界に用無き秋の簾かな

雁渡る屋根裏部屋に詩を生めば

蓑虫や月に嘯く梢の風

風雲に誑かされて女郎花

稲妻を見し高ぶりを胸に眠る



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「手」

母の手に残る紅葉の冷えかとも

てのひらは意外と冥くもみづれる

飯粒がよろこぶ空の高さかな

囚はれしまなこに見ゆる芒かな

山葡萄きそひし兄も鬼籍なる

大過なく生きたる簾納めけり

雨ながら訪ふ人のあり実むらさき

簗崩れつれなき空のあるばかり

酒温めいよいよ夜の凄まじく

耳鳴りの止まぬ鬼城の忌なりけり

獺祭忌俳諧埒もなかりけり



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「影」

わが影の醜さに泣くいぼむしり

背負はれしおもかげもなく蛍草

月影に翳せし鬼の捨て子かな

櫓組む入江に鰡の影もなし

たもとほる影もゆらめき酔芙蓉

落ちてゆく鮎のまなこに映るもの

蟋蟀の深入りしたる山家かな

秋刀魚焼く身はたそがれの興行師

稲雀潮をなして逃げ廻る

柿三つ俳諧栓もなかりけり












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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
蟷螂の写真が見事ですね。
花てぼ
2014/09/20 10:07

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