再生への旅

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zoom RSS 今日の一大事因縁・末期の目

<<   作成日時 : 2014/10/24 20:19   >>

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石蕗の花のまわりが暮れてをり 玉宗

秋も深まり、十月もあと一週間。
能登半島地震復興を記念して始めた興禅寺の観音祈願祭が三十日に控えている。境内の清掃に余念がないのだが、日の短さを痛感する今日この頃。昨日、知人から大根の初物を戴いた。大根と云えば冬の食材である。いやがうえにも季節の移り変わりを目の当たりにして、光陰の速やかなることに為す術もない。

能登半島地震に被災し全壊した興禅寺も復興することができ折、わが一生の役目を終えた感があった。あとは蛇足か余禄か惰性か、などと正直、脱力したものである。後継者のことを云えば、倅も同じ仏道を歩んでくれている。これもまたわが役目を果たしたの感がなくはない。

最近ふと気づいたのだが、還暦を来年に控えているからでもなかろうが、加齢の為すところなのかどうか、朝起きて勤行をするにつけ、掃き掃除をするにつけ、ご飯を戴くにつけ、家族に囲まれているにつけ、空を仰ぐにつけ、俳句を作るにつけ、蒲団に入るにつけ、いづれはもう二度と相まみえることもない今を限りの存在であることを言い聞かせている自分がいる。

体力に任せて、はしゃいで生きて来た年代は疾うに過ぎたことを日々知らされている。季節に四季の移ろいがあるように、人それぞれに、人生もまた四季に順じた勢い、潤い、余情があるのではないか。人生を投げ出すというのではなく、無闇に走ってきた勢いにブレーキをかけているようなところがある。自分は人生を何も知らなかった。何も見えていなかった。知らないまま、見えないままに生きても一向に差し支え得ないのではあるが、一度きりの人生の風景をもっと、しっかり、丁寧に目に焼き付け、肝に銘じ、身にも心にも銘じ、人生の束縛から解放されたがっている自分がいる。

思えば、この世に生れて来た時、私は従容と生をうけいれたのだろうか。解らぬままに生を重ね、時を重ね、いつとも知れぬ死にまみえるその時、私はうろたえることなく、従容と死を受け入れることができるだろうか。それもこれも、私は今を従容と受け入れて生きているだろうかということの延長線上の話しだ。それだけが人生の一大事なのではなかったか。今が誕生、今が臨終。一生と云うも今より他になかりけり。生も今なり。死も今なりと覚悟して、内にも外にも、生にも死にも透徹する末期の目を持ち合わせていきたいものだ。


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「あるやうに」

落葉掃くことより今日の始まりぬ

秋の雲ひろがりひろがり詩に餓ゑて

林檎生る答がそこにあるやうに

瓜坊を蹴散らしてゐる典座かな

もの云はぬ口を漱ぐや秋の空

和解せし夜は頻りに落つる木の実かな

障子貼る今更夫を捨てられず

生きてきた妻と二人の紅葉かな

悉く腹をすかせてゆく秋思

人と逢はぬ一日焚火して終る


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「霜降」

霜降の母が寝息やいや深き

秋の雲山の起伏に影流れ

キリストを孕みし如く鹿ねまる

ちやんばらの引き揚げてゆく刈田道

黄落や眠たさうなる鳥けもの

雁渡るころや餅つき道祖神

雲水に落葉掃きたる日の匂ひ

傷舐むる猪もあるらむ岨の月

干柿の日にてらてらと肉萎えて

乙女さぶ妻が親しむ灯火あり



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「能登暮秋」

富山より藁買ひに来る能登暮秋

かんばせに秋の木漏れ日さはさはと

烏瓜身に添ふものもなかりけり

紅き実をしるべに越ゆる山帰来

見過ごしてお茶の花とは知られけり

生き死にの冷えまさりゆくもみぢかな

秋蝶の翔つとき迷ひなかりけり

生まれて以来末期の如しいぼむしり

而して色なき風をきくばかり

とどまれば風に葬る芒かな










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