再生への旅

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zoom RSS 今日の煩悩即菩提・自在に生きるとは?!

<<   作成日時 : 2014/10/15 19:22   >>

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歳月を壊さぬやうに紅葉狩 玉宗

台風一過、急に肌寒くなってきたようだ。
今月は興禅寺、永福寺共に観音祈祷法要が控えており、紅葉狩りには行けそうもない。数年前、足助の香嵐渓に親子三人で出掛けたことがあったが、紅葉には少し早かった。お寺の都合優先で暮らしているためか、どうも、夫人と出掛けると早すぎたり遅すぎたり、休みだったりと間の悪いことが多い。

さて、観音様が様々な姿になって衆生を済度されることはよく知られているところ。それは又、人の煩悩の数ほど観音様に出会える機会があるということでもあろうか。煩悩が沢山あっていいね、とか、煩悩のままでいいのだよ、といったことを容認しているのではあるまい。これはあくまでも仏様の方からのもの言いであって、衆生である私の実際から云えば、私は私の身と心を以って仏にまみえ、自己の再生を計るしか手立てがないということを言っているのだと思う。

仏に真向かう、それは人それぞれに自己に向かい合い、その命の実相、光と闇、人生の真相に気づく出会いでもあろう。まっさらな、素にして臨機応変、自在なる命のままに、自己を虚しくして向こうから照らし出され回向されるものがある。仏としてうまれ、仏として生き、仏として死す。そのような次第のわたしのいのち。仏の世界に手を合わせるとは本本来そのような自己をまっすぐ戴く「清浄行」ではなかろうか。欲望の上塗りをするものでもなく、勝手気ままの業苦を勧めている訳でもない筈だ。

自己を空っぽにして為し得る自在というものがある。つまり執着を離れ、身を捨て、心を捨てて解放される世界がある。何故、そのような手間を取るのか?

自己が自己を呼ぶ。命が命を肯う。人間とはそのような手間の掛かる存在なのであり、それは人の命の自ずからなる働きとしか言えない。「自らを知らんと求むるは生きるものの定まれる習いなり」とは、道元禅師の慧眼である。観音様から照らし出される本来の自己、自己の本来。それはつまり自己の輝きが自己の世界を照らし出すということ。自在とは自己が自己に落ち着いている様子にほかならない。それだけのことであり、それだけのことができないで迷いを重ね、無明をさまよい続けている私がいるのだ。

それでいいのかといのちは自問自答している。いのちはいつも本来の自己に還りたがっている。



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「横顔」

嘘つかぬ横顔にして小鳥来る

厠より吹きあげてくる野分かな

木守柿やぶれかぶれの風の中

樋の水吹き飛ばしてや稲雀

芭蕉葉の見る影もなく破れけり

窓といふ露けきものに触れたがる

けふもまた鵯一羽来たるのみ

雨風にごつんと落つるくわりんの実

猿酒を溺れて家を捨てにけり

煮炊きの火漣立てる銀河かな

蜑が家は軒寄せ合うて秋時雨



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「つべこべ」

つべこべといふ間に釣瓶落ちにけり

銀杏の実ひろふぶつくさ言ひながら

みせしめの如くにかぶりつく林檎

子を喰らふ如くに熟柿啜りける

薩摩芋喰ふにほどよきついであり

秋刀魚焼く顔は先刻暮れてをり

秋しぐれ京より来たる小商ひ

月に日に吊るせし柿の焦がれ色

雁渡る頃なる空の翳りあり

紅葉見てゐたるかんばせ冷えありぬ

てのひらに紅葉掃きたる箒胼胝


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「猿酒」

あの世覗く貌映りけり猿酒

猿酒の底に虫唾のやうなもの

贄の夜はのつぺらぼうの案山子かな

密教のけもの道より月夜茸

此処に来て坐れと猿の腰掛が

間引かれし大根ほどなく女体めく

手入れせし空より松葉さらさらと

古池や芭蕉破るゝ風の音

先導の尻ばかり見え虚栗

湯に浸かる如く焚火の輪に入れり











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