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zoom RSS 今日の不立文字・禅語って何?!

<<   作成日時 : 2014/11/01 17:06   >>

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茶の花のいつともしれず地に伏して 玉宗


お茶のお稽古に余念がないわが夫人が聞くことに、「お父さん、一口吸尽西江水って、どう読むの?んでもってどういう意味よ?」

「うるさいな、見ればわかるだろ!読んで字の如しだよ。それ以下でも以上でもないんだろ茶席の禅語なんて!」

などと、お茶の先生が聞いたら憤慨するような返答をするのが常であるのだが、夫人はめげることなく何度も教えを請うてくる。鈍いとも言えるのだが、ある意味、打たれ強い女である。そしてある意味地に足がついている。然し、禅語というものに対するお目出度さには如何ともし難い。もう一度出家したくなるというもではないか。

出典は次のようなところからでているのだろう。

『禅林句集』
一口吸盡西江水、洛陽牡丹新吐蘂」(出典:五祖法演禅師語録)に作る。

〔龐居士語録〕
居士後之江西參馬祖大師。問曰。不與萬法為侶者是什麼人。祖曰。待汝一口吸盡西江水即向汝道。

恐らく臨済の公案にも採用されているのであろう。古の宗師家の吐いた一言隻句が未だに斯界に流通しているというのも奇怪なことではある。馬祖が吐いたそのときの気息など疾うに雲散霧消しているにも関わらず、禅語には死者を生き返らせるようなところがあるのだろう。古色蒼然たるは言葉ではなく、お前ではないのか、と言いたいところだが、夫人に公案を欲しているのかいないのか。禅語とはお茶の手慰みに成り下がってしまったのか、成り上がったのかと言ってみたところで、なんか友達の少ない夫の、負け犬の遠吠えみたいなことに成り下がっている現実がある。

それはさておきだ、今、ここに生きているなにものが、西江の水を一口に吸尽しないでおられようか。
わがいのちとは、法性が法性を汲み、欲し、極めている事実の謂いなのである。なにを目出度いことに、他人事のように、過ぎたことのように、手に負えぬことのように、未だ来らざることのように、迂闊でおられようか。今、ここに、目覚めて生きることの肝要さだけが問われているのである。そのような次第でない限り、禅語の掛け軸にお茶を嗜んだところで、持って回った暇潰しにしかすぎんだろうというものだ。

お茶を嗜みたいという夫人の願いを受け入れてはいるが、日々の、今、ここを蔑ろにして、上辺の稽古事をしたところでどうなんだろう。贅沢なことだよね。というより、仏弟子には破戒行為ではないかな。(妻は寺族で、仏弟子ではないが・・)稽古事を許しておいてなんだが、お寺のことをしているだけで十二分にお茶の心に叶う筈なんだけどと私なんかは面白くないのである。このような私の言い草は、単なる仲間はずれの言とも見えないこともないが、まあ、べつに目くじら立てるようなことでもないかと思ったりもして、夫人にはもとより、誰にも言い掛かりをつけられないひとりごとの域を出ない。

おそるおそるながら世界を一口に吸尽しようとしている私もまた、いつまでも今に目覚めなければならない公案の日々を過ごしているのである。人のことにかまっている暇はない。恐らく、夫人も又そうなのであろう。なにおかいわんやである。



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「枕」

嵩低き母が褥や菊枕

閨に入る貌してをりぬ紅葉狩

火や恋し母に抱かれてゐるほどの

夜なべせし母の音する枕もと

焚火して腹の膨れし思ひあり

貰ひたる新米重き頭陀袋

桜紅葉寄り添う影もなかりけり

鹿ねまる嗜むといふしづけさに

綿虫のさきがけに目を奪はれぬ

菜を洗ふ音して釣瓶落しかな

雁渡る逸るこころを押さえつゝ

秋灯の滴るごときゆふまぐれ

腸の一句ものにし柿を喰ふ



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「音」

がさつなる音立て走る柿落葉

甍打つ雨の音にも冬隣

音立てゝ釣瓶が落ちていくやうな

濡れてゆく人見るうすら寒さかな

留守がちの神々ばかり紅葉山

冬用意さ中の雨となりにけり

入口はなんだか甘い蛇穴に

鼻息の荒さ綿虫遠ざくる

学び舎はどこか歪で蔦紅葉

秋耕やしぐれがちなる里山の




















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