再生への旅

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zoom RSS 今日のばかやろう・お寺はだれのもの?!

<<   作成日時 : 2014/11/29 17:30   >>

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冬椿おもかげうすくたもとほり 玉宗

少し前の話題にはなるが、山陰のお寺さんが檀家さんに暴力を奮って逮捕された。どうも宗門の方らしい。
確定した話ではないのであくまで仮定を前提ととして勘繰ってみたい。

社会的に住職は宗教法人の代表役員であり、その定款規約もある。その辞任、解任も規約に則ってしようと思えばできないこともない。組織にはそれなりの構成力があり、解体力がある。お寺が誰のものか、という問題は今更問題ではないかの如くである。不適格とされた役員が解任されることは珍しくもないだろう。しかし、宗教法人では解決はそう単純に展開しないところが宗教法人たるゆえんであろうか。

お寺は伽藍と住職と檀家が鼎のごとく支え合い、補い合っている。その鼎は何を支えているのか?それは言うまでもなく、仏法という真実の生き方でなければならない。住職はその先導役であり、実践者であり、実務者であり、歩哨のごとき存在である。私は以前から、お寺は誰のものでもないというスタンスで住職をしている。それは今でも変わらない。羊頭狗肉で済ますことができるほど世間は甘くはない。出家も在家も信頼あっての社会であろう。

身近な家族という社会がある。妻子が私のものでないように、私が私のものでないように、命が私のものでないように、すべてひとときの仮の宿に過ぎない。それは一般においても同様であろう。私のものとは何か?無一物で生れ、死んでゆく我らであり、それは本来的に生きている今も変わらない真相である。今、私の手の中にあるもの。地位、名誉、財産、それらすべての、なんと危うく、当てにならず、幻のごときものであることか。東日本大震災を目の当たりにして、我々はそのような存在の真相を学んでいるのではなかったか。何を以って私のものとして執着可能だと云うのか。何を以って人様から一方的に支えられる存在などと言えるのか。

それは一人住職だけの問題ではない。檀家も又、お寺が自分たちのものであるという誤解を解いていかなければならない。人生がそうであるように、宗教がそうであるように、社会がそうであるように、お寺もまた創り上げていくものであろう。それはお寺が、つまり三宝が誰のものでもなく、志ある者のために存在する可能性であるということではないか。

信頼していたというかもしれないが、事態が意に反するようになるまで住職や一部責任役員に任せ切っていた側の無関心というものはなかったのかどうか。お互い、至らぬ人間同士である。どうしようもないお坊さんを排斥したい思いは理解できるが、それと三宝の真相に目を瞑るようなことになっては元も子もないというものだ。
そのような本質からいっても宗教法人とは組合みたなものだろうか。支え合う心をわすれたところには愚痴やわがままがまかり通るだけであろう。

今回の事例では暴力に出たことにより事態の悪化を招いた。暴力に対する償いはしなければならないし、仏弟子として暴力とは二重の咎なのである。窮してしまったと言ってよい。窮したことにより双方に見えてくるものがあろう。だからこそお寺側も檀家側も謙虚になり、虚心坦懐にお寺再生への道を創造して戴きたいと切に思う。



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「間」

絶望に少し間のある焚火かな

藪柑子日向恋しき日なりけり

木々はみな手をふるかたち空寒く

死が見えてしまへり蟷螂枯れ急ぐ

蜜柑ばかり喰うてもをれず腰上ぐる

来た道を落葉担いで帰りけり

枯草に坐れば死後のあたたかさ

縄跳びの子にあつけなく日の暮れて

嬉々として葱焼いてをり看取り妻

夢いくつも消えたる蒲団干しにけり



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「夢十夜」熱に魘されひねもすうつらうつらと・・・

煮凝や丑三つ時の夢十夜

竹馬や泣きむし小虫みんな来て

床臥せの向かうにつづく鯨かな

缶蹴りの缶を探しに行つたきり

縄跳びやとんでもとんでも母ゐまさず

旅続くおしくらまんじゆう抜けしより

何か失くして冬の駅舎にさ迷へる

夜は闇を引き揚げてゆく冬木かな

裸木となりて人生丸見えに

咳込めば鬼が浚ひにくる夜風

行く末も見えたり燗を熱うせよ

吹きだまる落葉の嵩や羅生門

見目の良き大根を人身御供とし

香具山の褥あかるき眠りかな

狐火もしぐれがちなる舞妓かな

棺桶に敷くほど落葉かき集め






















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内 容 ニックネーム/日時
 お寺は住職さまの所有物ではなく預かりものという見極めが潔く伝わります。
最近、義父母の関係した寺が繁栄に繁栄を重ね、川崎北部に広大な土地を持つに至り、どうして此処までの資金が出来たのかと不思議に思います。
30数年前にブラジルから妻と子どもを伴い帰国した僧侶です。近場の溝口という土地に小さな本堂と裏手に住まいがありました。その後新興住宅地の利点が幸いし墓を欲しがる人々が次々檀家となりました。当然ながら何百坪もの土地が買い取れれ、芸能人や有名人が墓を買ったそうです。東本願寺派です。妬みは一切ありませんが、お寺の広報紙には写真入りで、有名人の顔が住職と並んでいます。儲けが先立つようなお寺が厭で、若住職
に代わった知らせとブラジル妻と離縁した様子、彼岸に正月にとお会式ご案内を頂きますが、此の寺と縁切りしたいのです。家族的な小さなお寺にご縁を頂き、地域ぐるみで支え支えられる関係が築けたら、信仰心も少しは芽吹くかも知れません。無信心のような私ですが、一番嫌なことは戒名だ何だとお金が先立つ世の中です。
因みに連れ合いの父親は「おまけします」と言われながら80万余の戒名代を支払い、葬儀も控えめながら200万円以上かかり、貧しい私達夫婦は哀しみに浸る間もありませんでした。玉宗様のお寺から感じます清らかさに、愚痴を述べてしまいました。「御心のままに・・・・・」等と言われたら無理しても都合するお金ですが、寺の反映存続は株式会社ですか?と問いたいような場もあることをお知らせします。失礼致しました。合掌
みどり
2014/12/01 12:20

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