再生への旅

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zoom RSS 今日の諸行無常・面影橋を渡るとき

<<   作成日時 : 2015/01/30 20:30   >>

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面影や雪解橋を渡るとき 玉宗


一月も晦日となった。
寒行托鉢も節分まで。もうすぐである。なんだかんだと輪島は例年より過ごし易い寒中であった。同じ輪島でも一歩山に入ると雪も多いが、自坊がある海に近い市内近郊は雪が積もっている方が珍しくなった。然し、風は半端なく強いし、冬の雷も名物となっている。そんな輪島の冬を過ごすことも三十年。生れ故郷である北海道より長く他郷で生きている。北海道の冬も写真でも見ない限り今では実感が湧かない。イメージが薄くなって来ている。

薄くなっていると言えば、実の母や父の面影もそうだ。毎朝のお勤めで二人の回向をしていて気づいたのだが親の顔がおぼろげになってきている。その事実に我ながら少なからず驚いたものである。去る者は日々に疎しとは言うものの、なんだか申し訳ない思いである。写真を見えればいいではないかと思われるかもしれないが、そこにあるのは、文字通り時が止まっている唯の絵に過ぎない。それに私は余りアルバムを開くことをしない。薄情と思われるかもしれないが、亡くなった父と母が私の血肉となっている事実があること、その事実を生きていることを疑う理由がわたしにはないのである。だれがなんと言おうが私は両親の分身である。写真をみて感慨に浸ることに耐えられないようなところがなくはない。私の中にある父母の思い出、面影。それは一つの嘘であるかもしれない。ねじまげているのかもしれない。ありのままといっても私からみた両親のありのままである。妄想であるのかもしれない。人は自分の都合のいいように思い出すものだ。思い出が美しいのではない。美しく思い出すのだ人間は。

どうあがいても死んだものを生き返らすことはできないし、過去を引きもどすこともできない。父と母の夢、無念、生きざま、死にざま、山河がある。そこに一番近くにいた筈の私ではあるが、今、ここにあるのは父と母の面影を抱いて今を生きているいのちの事実があるだけだ。父と母の人生をありのままに受け入れようとしている私ではあるが、ありのままとは儚さの別名であり、美しさの別名である。美しく思い出すとは思い出の儚さを受け止めているということだ。そのような儚さ、うつくしさが生きていく力となる奇蹟がある。思い出、面影、夢が分身である私の生きていく力となることに何の遠慮もいらないだろう。神様だってそれは咎めるとは思われない。


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「そもそも」

蜑が家の納戸を借りてかじけ猫

炬燵から猫の過るが見ゆるなり

旋毛風雪野原にて逃げ回る

寒烏手持ち無沙汰に歩きけり

生きてゐる牡蠣を喰はねばならぬとは

空はまだ腸暗き海鼠舟

梅咲くや髭剃りあとの青々と

閑さうな男たち寄る春炬燵

まんさくの花が糸ひくちりちりと

そもそもが雪間に家を捨てしより

冬鷺の肩を窄めて立ちつくし


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「霜の花」

燦々と霜の花咲くあさぼらけ

春を待つほかには欲もなかりけり

枝撓る橙一つ木を守り

星を見るための氷柱を落としけり

冬牡丹寄り添ふ影もなかりけり

侘助や生き別れたる面影の

水餅の底を衝いたる水煙り

朝市に庇を貸して寒造り

山越えの僧に生姜湯もてなしぬ

兄が着た色の毛糸を編み直し

白梅やまだ気の置けぬ空の色


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「水鳥」

蝋梅の雨に艶ます仄かにも

霜柱愚かに年をとり過ぎて

死後のこと語り合うたる蒲団かな

水鳥やさながら京のあさぼらけ

暮れかゝる入江に染まり浮寝鳥

大鷲の太古の餓ゑやオホーツク

キリストや白鳥抱へ来るごとし

雪解のしづくの中や冬木の芽

枕辺に鶴の冷えあり草城忌

風は千里をさぶらひ碧梧桐の忌日なり
















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