再生への旅

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zoom RSS 托鉢あれこれ・行としての托鉢

<<   作成日時 : 2015/01/11 22:04   >>

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門松や他国に生きてみととせの 玉宗


寒の入りから寒行托鉢が始まり、輪島市内を一人で鈴を鳴らして歩いている。
こんなことも三十年やってきたことになる。門前市内は門付けだが、旧輪島市内は流して歩く。興禅寺に入る前は永福寺のある旧輪島市内だけだったが、祖院に出仕していたこともありそうもいかなくなった。祖院の寒行托鉢を済ませてから輪島へ戻り、自坊の寒行を勤めていた。思えば無茶なことをしていたものである。
祖院を辞してからは興禅寺住職として門前町内を歩き、旧輪島へ戻っては永福寺住職として寒行を続けて来た。

実際のところ、興禅寺も永福寺も寒中は托鉢だけがお寺の収入である。その日暮らしのお坊さんとしては怠る訳にはいかなかったというのが正直なところ。辛いと思ったことはないといえば嘘になるが、この歳になってなんだか寒行托鉢への思いが純化されてきたようなところがある。毎日、4時間前後、日によっては午前午後と歩いたりする。始めの一歩はいつも重たく、気後れするのではあるが、時間の経過と共に妄想も消え失せ、ただ歩き、鈴を振り、喜捨を受けて、そしてその繰り返しをしている自分がいる。むなしいと言っているのではない。妄想や余念を必要としない、今、ここを生きている実感があるだけだということに気付くのである。そうであってこそ「行」なのであり、「成仏」なのであり、「救い」なのであるということ。

中途半端なお坊さんながらも、一意専心に身を尽くすことができる幸いを思うのである。そのような経験則からもの言えば、成仏とは今を限りのもである。仏性とは成仏より先にあったり、後からついて来たりするものではない。ましてや溜め置きできるような筋合いのものでもない。目覚めとは今、ここに目覚めるのである。それを何度でも懲りずに繰り返すこと。それをしも「発心」とは言い、「誓願」とは言うのである。成仏だけではない。本来、堕落するのも又今を限りのものだ。悪も、善も、生も、死も、損得も、毀誉褒貶も、諸行無常も、今を限りと切れながら続いていくのだ。ダメ人間ながらも成仏できる可能性がある所以でもあろう。

自己を見捨てない。自己をあきらめない。自己を見限らない。自己に執着しない。それが仏道の本義であり、そのような展望は「行」よってこそ身にも心にも自得し、冷暖自知することができるのではなかろうかと思っている。「行」の中で野垂れ死にできればそれに越したことはないと思っている次第。


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「手鞠唄」

寝正月日暮れの如く満ち足りて

冬怒涛どの路地からも見ゆる町

丁寧に後生大事に着膨れて

干大根叶はぬ夢の匂ひして

風花の触るゝとみせて翻る

双六を上がれぬ吾子が泣き出しぬ

生贄の子に手向けたる手鞠唄

死ぬる世を退席もせず根深汁

雑炊を性懲りもなく平らげて

梟の咽に閊へし無言かな



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「霰餅」

ふるさとの飴色氷柱今もなほ

骨のある男と海鼠喰ふことに

水餅の腰を浮かせて掬ひけり

海からの風に晒して霰餅

田遊びの早乙女に借り出されたる

海山に風を宥めて初恵比寿

茶の花や行つたり来たり坐つたり

梟や津波の如く夜が来て

どんど果て煤けし空の残りけり

月並もめでたかりけり初句会



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「起舟」

起舟祭満艦飾を靡かせて

青竹を舳先に掲げ舟起し

錦飾りて正月場所を迎へけり

懸想文売るに諂ふ烏帽子かな

水餅や暗くしづかに密やかに

八幡の巫女より受くる破魔矢かな

旅の男が独楽を回して立ち去りぬ

初伊勢へ妻を浚つて行きにけり

左義長へ抛り込まれはせぬかとも

寒さうな男見てゐる鴉かな









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