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zoom RSS 今日の教外別伝・神といふ名の不在証明?!

<<   作成日時 : 2015/02/08 20:31   >>

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雪代を見送る月の伽藍かな 玉宗


僧堂では冬安居も今月半ばに解制となるところが多い。釈尊の涅槃会もある月で、涅槃月とも呼ばれている。能登の涅槃月は如何にも寒い春だ。旧輪島市内は陽暦二月で行事するが、門前地区は月遅れでしている。暦の上では春ではあるが、それでもお釈迦様の命日にしては如何にも寒い日であることよと思う。

然し、仏事も又、郷に入れば郷に従えというか、環境の中で応用できてこその仏事でもあろうかとも思うのである。北国には北国の涅槃の風景があり、心模様がある。南国には南国の、砂漠には砂漠の、都会には都会の涅槃の風景と心模様があるだろう。
仏道はモンスーン地帯であるインドネパールを遠源し、大陸気候の中華へ、そして温暖で、四季の変化に富んだ島国日本へと渡って今にある。つまり、そこに人間がいる限り、仏道は生き延びていく可能性があるということだ。宗教とは本来的にグローバルにして、ニュートラルなものではなかろうか。


さて、日本も埒外ではいられなくなりつつある、テロとも紛う世界三大宗教の名を冠した国家の発生。
そこに生きる戦士たちの風景、心模様があるにはちがいない。彼らの宗教。彼らの生死。彼らの人生。貧困。差別。搾取。不平等。正義。自分持ちとは言いながらも、身に覚えのない人生の不条理を越えて生きようとすることを誰も咎める事は出来ない。
暴力ではなにも解決できないという。確かに恨みを以って恨みを鎮めることはできない。ただ恨みを失くすことによってのみそれは可能となろう。然し、この世には様々な形態の暴力が存在することも事実である。民主主義とは即非暴力ではない。主義と言う限りそこにはなにがしかの暴力が介在する余地があることに変わりはない。社会とはパワーバランスの諸形態の事だ。

イスラムだけではない。神と云う名の不在証明は世界中にあるだろう。民衆という不在証明もあろう。正義と云う不在証明、国益という名の、それらはすべて良心の不在証明であり、自己の不在証明であろう。四六時中、不条理の中で生きられるものではない。人間とは逞しいようで弱い存在である。
それにしてもである。不在証明を授けてくれる自分に都合の良すぎる存在者など碌なものである筈がない。そのような代物とはきれいさっぱりと手を切って、もっと自己ぎりのいのちに目を配り、心を配り、拘るがいいのだ。自己の内に目を向けず、外にばかり血走り、寛容さをなくしたとき、その時こそが自己の崩壊の始まりではなかろうか。それは宗教の崩壊ではない。


人間の愚かさとは竟に自己の真相を知らないことに尽きる。



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「ほどく」

春立つと縄を解いてあげにけり

旋風春の焚火を蹴散らしぬ

僧一人はだれ山より下りて来る

肩凝りをほぐさむとして梅を見に

大根を抜きたる穴に春の闇

如月のうすら寒さを着飾りて

春めくやうす桃色に日が落ちて

毛虱の流されてゆく雪解川

涅槃会の米托鉢や春しぐれ

春の星家を捨てかね見上ぐれば



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「良寛忌」

衆愚なるまなこ濯ぐや良寛忌

春ひとり松ぼっくりを蹴りもして

犬ふぐり額に汗し働けと

蕗味噌を好み牛後を肯んじ得ず

まんさくの花は色引くけむりかな

合せたる襟の緩みも春めきて

夜をかけて轟き渡る雪解川

目刺喰ふざつくばらんといふ風に

押し返す鶯餅の不甲斐なさ

雪代の旅ゆく先や日本海

暮れ残る鎮守の森の古巣かな


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「おねしよ」

春服や知らないうちに大人びて

雪解けて山がおねしよをしたやうな

春疾風空が破れてゐたるかと

雪解けてゆくや光りをぶちまけて

雪代の轟く月の甍かな

うつゝなる旅寝の果てやうすごほり

如月の薄着を嗤ふ烏かな

魚は氷に身をまぼろしに横たへて

自刃せし花のかんばせ落椿

明日が見えぬと土手に上れば春の風

















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