再生への旅

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zoom RSS 今日の妄想・涅槃の憂鬱?!

<<   作成日時 : 2015/02/13 23:07   >>

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ものぐさの屋根に雪摘む涅槃かな 玉宗

2月15日は釈尊涅槃の日。お釈迦様の祥月命日である。僧堂では涅槃会接心を行っているところもある。坐禅を以って報恩の誠を尽くすということだ。一般のお寺では涅槃会法要を催し、涅槃団子を撒いたりして、釈迦の遺徳に思いを馳せ、お粗末な自己の生き方を新たにする。仏教徒とはお釈迦様に生き方を習う人間のことでもある。手本とすべき人生の先達がいることを幸いとする勝縁があるということだ。

私は一カ寺の住職ではあるが、お山の大将ではない。檀信徒が住職に期待しているものがあるだろうが、お粗末ながらも少しは全うな人間として生きていきたくて、今日まで憚ることなくお坊さんをしてきたというのが正直なところである。人様の手本になるといった誓願もどちらかと云えば薄い。世間には人並以上に見切りをつけているつもりではあるが、さて、自分に見切りをつけているかどうか、未だ判然としないところがある。そのようなことも含めて、半ば開き直り、半ばなげやり、半ば自己放棄、半ばあなた任せと云われかねない人生を送っているのが実際のところ。疑心暗鬼ながらもなんとか今日まで生かさせて戴いている。抜け目ないのか、逞しいのか、よく分からん人間力ではある。

実に、お釈迦様の恩を思えばざんきに耐えない。勢い、涅槃のころになると些か憂鬱になる。仏弟子の憂鬱って云うんですか・・・。涅槃のころになると、お坊さんの存在価値といったものがあるのかないのか、私という人間の存在価値がるのかないのか、といったことを自問自答するようになる。

人間、生きている限り迷うに決まったものだ、とかなんとか言ったのは誰だったかな。生きている限り半端ものには違いはないのだが、半端ものながらに今を限りのいのちを生きているには違いない。これはどうしたことか?!半端であるとか、ないとか、つまらないとか、つまるとか。偉いとかえらくないとか。そのようなことはいのちの絶対性に関わらない妄想という徒花なのである。つまり、ありのままに今を戴いて生きる。涅槃にいきるということ。涅槃を生きるということ。私が私を生きる。仏が仏を生きる。それが成仏であるということだ。


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「獺祭」

犀川の土手ひろびろと獺祭

がうがうと風鳴り渡る雪解谷

春風に吹かれてどこへ行つたやら

涅槃図を風のごとくに掛けありぬ

へうへうと風つれなくも春めきて

手袋を一つ失くせし雪解の子

九十の母に治聾酒すゝめけり

時間まで猿の交るを見てゐたる

雪形の兎を遠ちに畦火かな

岩肌を宥めすかして海苔を掻く



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「この道」

一人し生きる空を契るやいかのぼり

上り簗風晴れ渡る淡海の

剥きだしの夜はすさまじき涅槃かな

公魚のひとたび跳ねて氷りけり

飯蛸の石ころ抱いて釣られけり

海女老いて栄螺の籠に十ばかり

岬さびしもつらつら椿落ち已まず

水田照る朝より母の慈姑掘り

種芋や鼠が罠に泣くころの

この道をゆけばおしまひ山菫

はこべらを喰うて許してくれるなら


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「竹割祭」

佐保姫を招く裸の男かな

青竹を滅多打ちして春を呼び

竹を割る谺に山の目覚めけり

藁綯ひの大蛇を抛る雪解川

沖明けて見渡すかぎり春の海

銀鱗の海に澪引く鱵舟

壺焼や地獄の釜の番をして

疑へば切りなし残る氷さへ

たもとほる影は年増の椿かな

身も知らぬ男が梅を嗅いでゆく















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