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zoom RSS 今日の自己弁護・お坊さんの性格?!

<<   作成日時 : 2015/02/17 08:18   >>

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あたゝかや猫も杓子も山河大地も 玉宗


多くの人にお坊さんとしての性格の適応を疑われている私ではあるが、お坊さんに叶う性格というものがあるのかどうか、俄かに確定し難いと思っている。まあ、出来不出来はあるかもしれんが・・・。

ある知人との会話の中で「あの人は優柔不断なんだよ。」という言葉が出てきた。地位のあるお坊さんの話題であったのだが、老師と尊称されるその方を評して「優柔不断」と言ってのけた知人の、拘りのない慧眼に感心した。宗門に於いて「老師」や「師家」と呼ばれる方は、私が指摘するまでもなく、「行解相応」の宗師家であり、人天を教化するに足ると認められた人物である。僧堂という仏弟子養成機関で指導的立場にあり、それは当然のごとく在家への教化伝導のマスターであることを意味している筈である。

ところで、「老師」や「師家」と謂われる方が「性格的」に優れているかどうか、と言われれば正直なところ私には俄かに全面的肯定はできない。というか、「性格」とは「優れている、いない」とか、「いい悪い」などという範疇だけで評価されるものなのだろうか?確かに、「いい性格だな」とか「悪い性格でね」などという言葉を耳にすることはある。然し、評価というならば「面白い、面白くない」「人間的な、人間的でない」というような「性格」の様々な評価があってもいいのではなかろうか。

「優柔不断」という「性格」の評価は、すべての評価がそうであるように、人間の二面性を合わせ持っているだろう。お坊さんとして「優柔不断」であるというのは、決してマイナス評価に偏るものではない。お坊さんとは意外と人間を見る目があり、人情の機微に通じているものだ。宗乗や行においては「積極果断」であっても、社会的には「優柔不断」であることは大いにあり得ることではなかろうか。勿論、その反対も、或いは、いずれにも中途半端なお坊さんがいることは言を俟たないのだが。

お坊さんに性格の完璧を期待する向きもあるようだが、修行の眼目は性格の矯正や完成ではなく、どこまでも自己の成仏が本筋であることを言いたい。ということで、お坊さんに向いている性格というのも幻想である可能性が高い。摂取不捨。悪人正機。成仏するのに必要なものは娑婆世界に生きる人間であることだけが十分条件ではなかろうか。お坊さんであることを買被らない。人間であることを買被らない。あくまでも生身の人間が仏の方を向いて生きて行こうとしている。それが尊いのだ。私はそう思っている。


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「ここにきて」

頼みもせぬ野蒜を摘んで父帰る

春来ると髪を束ねることをして

頭陀袋涅槃の風に干されあり

千里来し風を宥めて山菫

ここにきて屈めともの芽出づるかな

ものゝ芽の影の丈にもきのふけふ

草萌やけふをかぎりのまなざしに

春やさびしも空に高舞ふ鳶の笛

砂に書きし梵字を春の波が消し

その辺をひとめぐりして春めきぬ

朧月人に尾鰭があつた日の

春あられ偶にはパンを買ひに出て

思ひ出をはみ出してゐる蕗の薹

頼まれて添ひ寝してゐる遅日かな



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「間垣村」

海開けの東風を梳かせて間垣村

草萌の沖遠くして吹かれをり

郵便ポストの向かうに春の波がしら

涅槃吹く風も迷へる間垣かな

雪解して峡に轟く夫婦滝

空稲架の沖に蠢く春の潮

春の波海苔掻き岩にひた寄する

竹垣に立て掛けてある海苔簀かな

悉く恋猫にして港町

黒々と打ち返されし春田かな

薄ら日をひとり占めしてクロッカス



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「古草」

古草や日の当たりゐて風さむく

烏来て雨水の枝に口拭ふ

春雷や魚捌いてゐたるとき

まな板にそゝぐ水にも温みあり

脛に傷涅槃の風の腥き

塔一つ埋み残して古都霞み

鳥曇会ふも別れも手を合はせ

瀬戸際をはみ出してゐる春の夢

あともどりできぬとおもふ初音かな

一人来て増穂が浦の桜貝












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