再生への旅

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zoom RSS 今日の自己弁護・私がコメントを返さなくなった理由?!

<<   作成日時 : 2015/02/19 10:58   >>

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雛あられ腹の足しにもならざりき 玉宗


私は今も、ブログ、ツイッター、FBを利用している。ツイッターは殆ど俳句をツイートして人とやりとりするということが皆無に等しい。FBも似たり寄ったりで、先日以下のようなコメントのやりとりをした。ブログでもコメントを返さなくなって久しいので、参考まで?に読んで貰いたい。


「ところで、俳句作家鷹羽狩行氏によれば、「俳句は読み手に読まれて初めて完成する」との説があります。コメントが入れば、たまにはその答礼なども如何であろう?」


市堀  「忌憚なく申し上げます。私がコメント返しをほとんどしないのは、「俳句は読み手に読まれて初めて完成する」という鷹羽氏?(氏だけではないと思いますが・・)の言を鵜呑みにしているからだとも言えます。ただ、完成するといっても様々な読み手の中で完成するということでもありましょう。いや、それは完成と云うより作者にとってはときに誤読とも言うべきものであったりもします。それもまた可ならんかです。

また、俳句の鑑賞であるコメントに「答礼」といった義理人情の介在を私は余り好みません。私の句を読みたい人だけが読んでくれればいいですし、それは強制する筋合いのものでもなく、出入り自由、剽窃、類相、模倣勝手たるべしというスタンスでもあります。無視するというのも読み手にとっては大きな批判?でもありましょう。実作、鑑賞、批評どこまでも文藝における自己責任の領域です。鑑賞や批判が適切であろうとなかろうと、畢竟文とは自己を語ることでしょう。まさに人は文なり、文は人なりです。

それにしても、コメント貰いっ放しとは、まあ、時間がないという理由にもよりますが、それにしても余りににべもない、何様のつもりなんだろうと私自身もおもわないではありません。できる限りコメント下さった方を訪問し覗くのですが、仰る通り、たまにはお愛想も言いたいのですが、正直なところ、そんなことに感けている時間が惜しいのです。こんな人間ですから友達も少ないわけです。FBに於いても基本的に淡交を心掛けたいです。

おそらく皆さんと同じように私は自分が一番大事なのです。森を見て木を見ず。木を見て森を見ず。どちらも本当です。そしてどちらも嘘でしょう。全ての人が市堀玉宗という人間の全分を受け入れるとも期待してはおりません。虚実に遊ぶ文藝とはなかなかに手ごわい、よしなしごとですね。お気に召さなければ無視なさってください。お大事に。合掌」


というような、木で鼻を括ったコメント返しをした訳であるが、さて、ブログでの事情は些か趣きを異にしている。コメントを返さなくなった理由は手が回らなくなったということに尽きる。ご存じのように、以前は毎日UPしていたブログであるが、現在は三日に一度。ネタ切れということもあるが、正直ブログに当てる時間がない。というより当てることを惜しむようになった。FBなどに比べて反応にタイムラグがあることもその要因なのかもしれない。また、私自身に対応能力の限界を越えているのであろう。俳句に関しては、この5年近く、毎日10句を更新しているが、文章となるとそうはいかない。コメントも又然りである。要するに面倒くさいのである。時間があったときに気まぐれにコメント返しをするようになった。申し訳ないと謝るべきものなのかどうか、よく分からん。ブログ上なのでの付き合いのおもしろさがコメントのやりとりにも有ることは否定しないが、ん〜、それがまた正直、面倒くさいあなあ。

面と向かっての人付き合いも苦手な私が、このような世界に飛び込んだのも、違ったかたちでの人とのつながりを持ちたかった筈ではある。そうではあるが、事ここに至って、どうも、人付き合いにも容量があるということに気付かされるのである。そう思いませんか?まあ、この程度の人を寄せ、寄り添う能力しか持ち合わせていなかったということかな。謂わば、ミイラ取りがミイラになったみたな感じ。

それでも、偶に、ブログの内容に感動されたり、啓発されたといったコメントを戴くと嬉しいのだから困ったものだ。これからも、どこまでも一方通行のブログ、FB、ツイッターではありつづけるのだろうか。そんな自己満足に沈潜していていいものなのかどうか。まあ、そういうこともあって、今度、句集を世に問うたりする訳であるが、さてさて、いったい、何をしているのか我ながら判然としなくなりつつある。表現の世界に身を任せることの苦楽を味わっているのだろうね。

もっと、素直に言えば、お坊さんとしても、俳人としても、人間としても、半端ながらも何らかの形で世のお役に立ちたいといった思いはずっと持ち続けてはいるのである。それがなかったら続けていなかったと言っていい。誰にも読まれぬ文藝、表現、作品とは無意味である。それはすでに表現でさえなかろう。それは俳句も仏道の話しでも同じことだ。

それにしても、人一倍寂しがり屋のくせに、人一倍人見知り、めんどくさがり屋っていうのも、われながら始末には悪いのではある。どうしたもんかね。畢竟、ブログもFBもツイッターも仮想、バーチャルな世界を出ないものなのかもしれんね。要するに、私は私を映す鏡を欲しているということかな。世の中は自己を映す鏡だらけでもあるね。ときに乱反射や虹のような自己の光りの世界にめくるめったり、妄想したりしているのだろうね、人間は。コメントを返さなくなったのも、どうもその辺の、なんというか、自分を見失うことへの臆病さ加減の仕業なのだろうね。さてさて、どうしたものか。

こんな私でよかったら、これからもどうぞ、よろしく。




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「蒙古斑」

春風やわれに鬣あればこそ

感興の冷めざるうちに桜餅

外にも出て遊べとばかり猫柳

謂はれなきこの世の春を憂ひけり

うすらひや風の裔なる蒙古斑

宵越しの胃の腑へくだす蜆汁

帰る鳥帰らぬ鳥も窓の外

当てのなき男見てゐるいかのぼり

春風邪の枕辺に置くランドセル

朧夜のいふてきかせし子の泪

薄氷を踏むさびしさのありにけり



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「木の芽雨」

くろぐろと雨水の雨に幹濡れて

籠りゐる耳を覚まして木の芽雨

待つことにいつしか慣れて春しぐれ

下萌や腸を踏むここちして

もの芽吹く木末に浮かぶ雨滴

踏まれ踏まれて顔の失せたるマリアかな

野焼より戻りし父の焦げ臭き

ポケツトに忘れし木の実植うるかな

土手を吹く風をきかばや獺祭

目刺焼く惚れた腫れたも疾うに過ぎ













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内 容 ニックネーム/日時
今晩は!!
本日、貴僧のブログを初めて拝読し投稿させ頂きました。
先日の「たまには答礼でも?」との言葉は適切では無かったものと存じます。「答礼」ではなくコメントに対する「感想」とすべき所であったようですね?。
ご存知のように、俳句はその成り立ちからして座の文学とも言われ、そのメンバーを連衆とも呼んでいました。バーチャルなパソコン上での事とは言え、自身の俳句を少しでもましなものにと、心掛ける小生としましては、他の方の共感出来る句などを眼にすれば、鑑賞とそのポイントとする所を述べたくなるのです。自身の良いと思う句の感想と、そのポイントとする所をまとめ述べる事は、作句と同じ程、重要な俳句の勉強となるものと確信している所以です。
御句を拝見してみて、いつも「一本筋の通る思い」を抱き、貴僧の「勝手たるべし」とのお言葉により、いつもではないかも知れませんが、又時折コメントを入れさせて頂く所存です。
貴僧の返しのコメントなどは、どうぞご放念下されたく・・・、委細承知であります。

鳥取県出身
京都市在住
69歳

ご挨拶句を!!
春寒の風の尖りし日本海
海鳴りの遠くに聞こえ春寒し
海苔掻や潮の沖へとゆらぎつつ
かつらたろう(桑本栄太郎)
2015/02/19 21:02

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