再生への旅

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zoom RSS 拝啓、良寛さま・「煩悩即菩提」

<<   作成日時 : 2015/03/07 22:26   >>

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茎立菜見捨てられたといふ風に 玉宗

拝啓、良寛さま。

北陸にも遅い春の足音が聞こえてまいりました。三月は出会いと別れ、旅立ちの月でもあります。そして震災への鎮魂に思いを致す月でもありましょう。近くは東日本大震災、そして個人的には能登半島地震での被災と再建の記憶。この間、私はなにを学び、脱皮したでしょうか。全てが変わった様でもあり、なにも変わっていないかの如き今の様子があります。歳月とははまさに諸行無常に棹さして生きている様子そのもののことであります。

そんな覚束ない私もいつのまにか齢還暦を迎えました。見た目にも若くはないことを自覚せざるを得ない昨今。益々、わが人生を自問自答し直し、再生の歩みを新たにしなければと思うのです。その一つのアプローチとして(否、これが私の持てる才能の全てなのですが…)還暦を機に第三句集を世に問うこととしました。自惚れの所業と云えばそれまでなのですが、これまでの俳句人生、仏弟子の目に映った山河を世に嘯きたいといった矜持のようなものがあるのも事実なのです。世に忘れられて生きることを潔しとして生きて来たつもりではありましたが、どこかに、そして未だに俺はこんなもんじゃないといった救われない思いが蟠っているのを誤魔化しようもありません。

知足の法に生き切った良寛さまの自在な生きざまを思うとき、憧れのお坊さんである良寛さまとはまさにその対極に生きている様な始末です。当に煩悩無尽ではあります。そして、敢えて分かったもの言いをさせて頂きますが、煩悩即菩提とは煩悩そのままでいいという筈もありません。それならばお釈迦様が世に出た意義もないというものです。どんような屁理屈を付けようと、このお諭しの意味は、煩悩を窓口として、或いは煩悩を契機として菩提に目覚め、わがものとせよということには違いないのです。ところで、煩悩とはいったいだれの煩悩でしょう、菩提とはいったいだれの菩提でしょう。迷っているのはだれか、抓れば痛いのはだれか、吸う息吐く息の今、ここの事実とは、いったいだれの事実なのか。どれ一つとして比べることも、やりとりすることも出来ない厳然たる犯し難いいのちの様子がありましょう。


生死即涅槃、煩悩即菩提、即とは表裏一体、一如ではありますが、表は金輪際裏には相対せないのです。物心一如、生死一如、一は如としての一であり、一とは竟に一だけではあり得ない概念であるということ。即なるが故に、一如なるが故に生き生かされている諸行無常の今のいのちの事実。それを私とも、糸瓜とも、煩悩とも、涅槃とも、生死とも言うのでしょう。

糸瓜には糸瓜の、即があり一如があり、知足の法が、生知には生知の即があり一如があり、知足の法が、不生知には不生知の、雑草には雑草の即があり一如があり、知足の法がありましょう。私が為そうとしている句集刊行もまさにそのような代物であると、良寛さまにだけは許していただきたいのです。合掌。



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「春二番」

ポケツトの底ぬけてをり春二番

腹空かせ待たされてゐる木の芽かな

出舟入り舟お構ひなしに春北風

梅東風や妻が怒つてゐるやうな

息絶えて土の固さや巣立鳥

頬白や風の瑞枝をわし掴み

沖霞む能登の浜辺に降り立ちぬ

大勢は変へやうもなく木瓜の花

目覚めたる雪割草のさゆれかな

ふところをすり抜けてゆく仔猫かな


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「なんなく生きて」

土筆摘むにはいい年をしてしまひけり

黄水仙くらいは摘んで帰らうか

春の風箍を外してゆきにけり

口外はならぬと春の夢覚めむ

縄文の顔となりたる土筆和え

手に負へぬ高さにたらの芽がありぬ

磯波をやりすごしてや若布刈舟

囀りやパタパタ布団叩くとき

若草や沖遠くして夢多き

菠薐草なんなく生きてさびしき日


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「霞」

もはや手の打ちやうもなく霞みけり

畑打つやひとり遠くに流されて

陽炎や鍵を失くせしものばかり

雪を割り一時間ほど遅刻せり

巣立ちしてほどなく死んでしまひけり 

茎立菜見捨てられたるやうにして

本堂の屋根の葺替へ村あげて

わらんべに囃されてゐる春の川

朝に夕に残る寒さを着こなして

なよなよの夕刊とどく春しぐれ















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内 容 ニックネーム/日時
この世にはすべて、陰と陽、プラスとマイナス、表と裏、右と左、上と下、北と南、西と東、男と女などのように表裏一体となっており、何一つ、一つのみのもの無いと言われています。その事によりこの世の何事も平衡が保たれるものと思います。「煩悩即菩提」とは煩悩があるからこそ菩提の境地を知り、菩提の境地を知るからこそあれが煩悩であったと理解出来るのです。ゆえにどちらもあるがままに敢えて受け入れ、その時々において心の状態を自身がコントロール出来、そして何事も受け止められるゆえ、生があるのではと思います。
一言でいえば、何事も偏り過ぎない「平常心」と云う事ではないでしょうか?京都の花の寺において、薬師如来様を拝観し、その教えを聞く機会がありました。その時「苦楽相半ばなら好とせよ」との言葉を伺いました。当時営業と云う企業戦士の為、大いに悩み苦しみ身体が出社拒否反応を起こすためかなりつらい時期を過ごしましたが、大変心理的に軽くなりました。
桑本栄太郎
2015/03/08 01:28

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