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zoom RSS 俳句の可能性・「俳句以前ということ」

<<   作成日時 : 2015/03/16 20:24   >>

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春霜の朝日に眉を濡らしけり 玉宗


今年の彼岸の入りは三月十八日である。

彼岸の入りで思い出すのは子規の「毎年よ彼岸の入りに寒いのは」という俳句である。
確か、母の呟きをそのまま一句にした経緯のある句ではなかったかな。これを単なる散文の切れ端、断片にすぎないと見限る人もいるのだろうね。俳句という呟き、それは偏らない写生の眼が捕えた今を限りのいのちの呟きである。それが単なる散文の断片に終らないのはなぜか。

例えば「鶏頭の十四五本もありぬべし」もまた俳句的呟きだと私なんかは面白がっているのだけども。ここには見ることの何気なさがある。見ようとする視界の狭さではなく、あるがままを受け入れている「裸眼」のしたたかさ、柔軟さがありはしないか。「写生の眼」と言っておこう。そして見ただけでは足りない「正確な言葉の選択」がある。それはそのまま子規という人間力であり、魅力なのである。

云うは易く、行うは固い「写生力」「スケッチ力」「描写力」。

俳句の実作現場では、初心者は自分の作品を前にして「見たまま」「聞いたまま」だというが、本当にそうか。「見たまま」の面白さを正確にスケッチしているかどうか。見たままの何が面白いのかと反写生派は言挙げするのであるが、それはおそらく写生不足の句を鵜呑みにしているの言であろう。現実はあるがままである。本来、不足も余剰もない。大も小もない。理屈も屁理屈もない。前も後もない。初心も後心もない。真の表現者とはそのようなリアルな現実から詩的世界を切り開く写生力、表現力が問われているだろう。俳諧にも又、表現者として持ちあわすべき真善美というものがあろう。それは写生俳句とて例外ではない。リアリズムとは決して無味乾燥な代物ではない。

要するに作者の眼差し、共感力、人間力といったような「俳句以前の問題」ではなかろうかと思っている。眞の人間なくして俳諧の誠なし。人間のまことがそのまま俳諧の誠に陰し光りするのである。文は人なり。人は文なり。俳句も又例外ではなかろう。俳句隆盛の今日ほど俳句以前が問われている時代もなかろうというものである。

ともすれば上っ面をなぞり、感動もなく、理屈先行の一句をものしようとする自戒を込めて言うのである。何度でも言うが、写生句がつまらないのではない。つまらない写生句があるだけだ。





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「春の霜」

春霜の朝日に眉を濡らしけり

芽吹きては風に鞭打つ柳かな

手折りたる柳の枝を挿木せる

春の川さし障りなき音立てゝ

鶯の初音に空をふり返る

懲りもせず躑躅の苗木を買うて来し

土割つて溢れ出したるもの芽かな

パンジーの裏が表とひるがへり

日陰れば肩身の狭きクロツカス

シクラメン花が捻じれて裏返る




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「他人」

芽柳や風が素通りしてゆきぬ

蛤を他人と思へぬ栄螺かな

蛇穴を先を競うて遊ぶ日ぞ

佐保姫の尿する音やはだれ山

筧して田に引き寄する雪解水

あしたばやきつと明るい海がある

いぬふぐり額に汗し働けと

初音してからの消息杳として

たらの芽の逃げ果せたる高さにて

茎立や徒食の影がたもとほり




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「さ中」

鷹鳩と化して小僧に蹴散らされ

龍天に登り反古焚く男かな

耕人のいつしか沖へ流されて

茎立菜臨時停車の窓辺より

馬の子が青き山脈蹴りあぐる

落椿ほの暗き身をよこたへて

草摘むや湖底となりし村境

蛇穴を出でし噂を聞かさるゝ

父は今ぺんぺん草のさ中にて

神棚の榊花咲く彼岸入り












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