再生への旅

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zoom RSS 今日の妄想・俳句という犀の角

<<   作成日時 : 2015/04/06 16:37   >>

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一日がはじまり終る春愁ひ 玉宗


なんか矛盾しているんだけど、そして、というか、だらか、少し悔しいのだけれど、俳句もまた芸事であるという一面は否めない。だれにも顧みられない作品というものは存在しないに等しい。まあ、存在しないに等しい私自身であるから、それも今更の話ではあるんだけども。

大衆文藝だという、俳句は。虚子は第二芸術だと嘯いたけど、騙されちゃいけない。あれは石田波郷の「俳句は文学ではない」という逆説と同じ穴の狢、或いは狸の最後っ屁じゃんかろうか。その臭みに耐えて自己表現する覚悟がお前にはあるのかという、文学者魂がそこに横たわっていると思いたいね。

まあ、それにしても、というか、百歩譲って、芸事だとしても、どんな芸事の道でもそうだと思うけど、畢竟「芸は盗むもの」だという厳しさがあるだろうね。今の俳句界、俳壇と呼ばれる世界で、教える方も教わる方も、作品は手とり足とり伝授して貰えるとは思ってはいないだろうが、なんだんだろうね、この浮ついた俳句界の賑わいは。一般社会の大衆ぼけが俳句の世界にも蔓延しているのは否定できないだろうね。ついて行けなんだな、私なんかは。

「目標!俳句人口一億三千万人」たらなんたら云うに至っては「勘違いも甚だしい」と言いたい。俳句はそんなに目出度いもんかね。毒にも薬にもならないヤクザなものだという羞恥心があってこその俳諧魂じゃないんかな。上田五千石や森澄夫などは確かに「俳句のめでたさ」みたいなことを仰っていたが、それもどちらかと云えば晩年ではなかったかな。知っての通り、お二人とも俳諧に骨身を削って自己の生を詠った俳人である。

俳句に限ってのことではないかもしれんが、人様と交わる事を潔いとしないところがある、私には。われながら面倒な、損な性格だとは思っているんだが、この気質が出家の世界へ誘い、今もそこに止まっている要因であることも紛れもない事実のようである。

俳句も又こだわりのない地平で遊んでいたいという思いのもとで続けているのも事実ではあるが、俳句が芸事という狎れ合いの域のものであることには耐えられないようなところもある。そうではあるが、私の俳句、そしてその実作の現場が如何にも文学であると云うには余りにもお粗末であることも事実だ。

わが仏道と同じように、わが俳句の道もまた、覚束ない犀の角の歩みなんだろうね。



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「覚めてなほ」

境内に薺咲かせて叱らるゝ

囀るに願つてもなき日なりけり

白雲をやり過ごしたる辛夷かな

蒲公英に難ありとせば憂ひなき

桃の花気ごころ知れたふるさとの

妻がゐる春の夢より覚めてなほ

草餅を供へ女系のしづけさの

朝寝して陸の淋しさ味はへる

グランドの空を燕がひとり占め

春泥に影の生まるゝ被爆かな




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「満足」

清明や逃げも隠れもできぬ日の

春の月釣りはいらぬと店を出て

朝寝して厭になるほど満足す

山吹の花に雨ふる廃墟かな

月蝕や炭焼小屋に影なして

はくれんの空に傷なす遥けさよ

能面の裏は真つ暗花篝

初蛙いかにも酒を呑み過ぎて

花冷や顔を撫づれば老い兆し

春愁が波打ち際に来てゐたる


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「生きたる果て」

能登はいま花屑を田に鋤き込んで

春障子開ければ妻のくずほれて

夢追うて生きたる果ての花守で

目を借りて言ひ訳ほどの仕事して

膝枕花に酔うたるふりをして

浮かれ世をこれみよがしに落第す

龍天に登る改定時刻表

花冷や今更妻の手も握れず

生きて来た二人の桜仰ぎみる

目刺焼く凡そ天下に用もなく







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