再生への旅

アクセスカウンタ

zoom RSS 今日の以心伝心・お坊さんの自死について、再考

<<   作成日時 : 2015/04/12 19:16   >>

トラックバック 0 / コメント 0

画像


アネモネや後はさよならするばかり 玉宗


FBのコメントのやりとりで、お坊さんの自死についての見解を求められ開陳した。以前の記事であるが、多少補足、添削して再考してみたい。

能登半島地震後にボランテイア活動の中で知りあったお坊さんが自死された。私より一回り若い独身男性である。宗派は違うが同じ被災者同士として心通じ合うものが少なからずあった。人柄も私などよりは余程穏やかで、今から思えば、その穏やかさ加減が自死を選択したのだろうかと思われてくる。お寺の事情を存知しないが、僧侶としてのお勤めの外に、一般の会社で副業をなさっていたのは知っていた。お寺だけでは生計が成り立たない小規模寺院が能登には多く存在している。彼の場合、それだけが自死の原因とは思われない。思い余るほどのことを他人が詮索することなど不可能だし、それは本人だけが知ることだ。いずれにしても、行き詰ってしまったことだけは確かなのであろう。

 年間の自殺者が三万人を越えてる現代日本。その中にはお坊さんが何人いるのだろうと改めて思う。一般人に比較して多いのか少ないのか、俄かに、そして軽々に判断し口外する事も出来ない問題ではある。
私が出家して間もなく、臨済宗南禅寺の管長さんが僧堂で縊死されてマスコミにも大きく取り上げられたことがあった。当時の識者たちが僧侶の自殺について見解を述べていたのを今でも覚えている。命の大事を諭す立場の者が自らその命を粗末にする行為は如何なものか、といったものや、自他共にその悟りを認められ師家分上と尊崇された方の心の堂奥は計りしれるものではないといった同情的なものや、神聖な修行道場を汚す蛮行であるといった批判的なものもあったと記憶している。

 お坊さんとして本物であったら命を粗末にするようなことはあるまい、といった見解も肯けるものではあるが、人さまの命を大事にすることにどのお坊さんであっても吝かではなかろう。行き詰って自殺することはお坊さんとしては失格であろうが、一人の人間としては、私などには同情を禁じ得ない。問題は自己の命を背負いきれない、受け入れ切れない私がいる、ということが問題なのである。彼が所属していた宗派がそれを教え導いていないとは考えられない。彼自身がどこまでその教えを生きる力とし、支えとして生きていたのか。

生きながらえれば苦労や恥も多く、迷う事もあるだろう。見えなくなってしまうこともあろうが、見えてくるものがあるのも事実である。自死することによって失ってしまう人生の醍醐味があるだろうし、弱さや愚かさが人間の存在意義であると思いたい。それはお坊さんであろうがなかろうが、本物であろうが偽物であろうがお構いのない、容赦のない命の実物の様子である。

お坊さんの社会的使命といったものは確かにあるだろう。人間ならばその任に堪えられなくなることもあろうというものではないか。お坊さんとして失格であってもそれが自死という責任の取り方をすることにつながりはしない。世の中には失格であっても堂々と看板を掲げている者がどれほどいるかしれない。それにしても身近にこのような事例が起きるのはやり切れないものである。彼は絶望という彼岸の一歩手前にいたことには違いないのだから。同じ方向を向いて生きていた者として、申し訳ない思いが拭いきれない。

力強く生きていくことを前提として仏の道であってみれば自ずと答は用意されている筈。然し、お坊さんと雖も、生身の人間が、すったもんだ、なんだかんだと修行している現実がある。それが尊いことだと私なんかは思っているのだが、さて、出家も在家も、地獄も極楽も、娑婆も浄土も、聖人も凡人も、糸瓜も仙人も、生きていくということは難儀と云えば難儀、なんともないと云えばなんともない諸行無常の有り様ではある。「わたし」に拘ることから迷いも悟りも出て来る。そして行き詰まる。自死とは「絶望という名の執着」と言えないこともない。なにもかも捨て切ることが宗教の面目、最初で最後で、そして道中なのだと心得ていきたいもんだ、としか私には言えないのである。


画像


「花陰」

割烹着の母は最強桃の花

蒲公英と眠るや大の字の空に

いつせいに片栗の花風に鳴り

潮の香の風に靡ける茅花かな

蓮翹の花や気まゝに通せんぼ

雪柳仏も古き西京の

海棠の花陰に待つランドセル

君子蘭二人暮らしのしづけさの

くづほれし八重山吹の花の屑

夕さりし畑打に冷え迫り来る

躑躅咲き湖底となりし村一つ




画像


「叱る」

風船を奪ひし空を叱りけり

歪みつゝ浮かばんとするしやぼん玉

ぶらんこやアリバイのなほ続きをり

なけなしの花摘む鳥を叱るなり

入学の子を坂道へ押し出しぬ

背負ふものなくて淋しき遍路かな

虚子の忌のそれは見事な類想句

啄木忌夢に膨らむ旅鞄

埒もなく隣りの桜見てゐたる

花と咲く二人静のゑにしかな


画像


「半日」

花を守る生きて行くのが厭になり

淋しらのみちのくの空花りんご

蛇穴を出でてぬくもる垣の上

しづけさや巣箱に月の差し交はし

寄り添へばなにか通じて木瓜の花

半日を棒に振つたる蛙かな

村の子を差し出せと鳴く雲雀かな

蟇穴を出でて搦め手の闇が

囀りや肌衣脱ぎすてられてあり

風車手にして賽の河原へと








テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
今日の以心伝心・お坊さんの自死について、再考 再生への旅/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる