再生への旅

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zoom RSS 今日の即身成仏・ほとけのいのちを生き切る

<<   作成日時 : 2015/05/29 14:49   >>

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聖みな山を恋して谷うつぎ 玉宗


五月は若葉の季節である。植物動物すべてのものが再生、甦り、伸びてゆく時期でもあろうか。この時期、僧堂には新参の修行僧が夏安居入制を前に勢ぞろいする。叢林で修行することを安居という。最初は教えられたとおり、ひとつひとつ言われたとおりに行じていかなければならない。色んな人間がお坊さんになってやってきて良いのであるが、それぞれ思うところがあっても、二十四時間の行住坐臥を叢林の規式に従って生活する。それが安居といって、好き勝手に行うのではなく、人に鍛えられるものでもなく、自分で自分を精進していこうと覚悟を決めるという事でもある。

人間社会には様々な生活の仕方があるが、その中で自分がどう生きるのか、それを自分で決めていjく。諸行無常な世の中で、安らかに居るというのはどこかというと、娑婆ではなく、道場がそれであると覚悟して生きるものを仏弟子とは言うのである。当たり前のことではあるが、僧堂は娑婆ではない。その僧堂たるや永平寺や総持寺の本山僧堂の他にも、地方僧堂が全国にあるが、自己を律し自己に目覚める威儀作法でもある行持は本質的にどこでも同じものである。同じでなければならない。どこの僧堂に安居しても自己からは逃れられないのである。

社会を垣間見るにつけても 一寸先は闇のごとく、人は自分でどこまで生きることが出来るのかわからない。無常ばかりの人生を無常なままに過ごしてはいい筈がない。勝ち負けや権利を求めるだけでもなく、不条理を嘆くばかりでもなく、善悪を論じるばかりでもなく、行住坐臥という日常の中で、天地同根である自分の「いのち」をいかに行じていくのかが問われている。

それは自己が実践し、冷暖自知してゆくものである。過去への退路はなく、未来への近道もなく、前に進む現在しかない。私は仏の道を生きている自己のいのちに対して素直でなければならない。日常も非日常も、私の生方が試されていることに変わりはない。現在、日本には大災害に遭って嘗て経験したことのない生活を余儀なくされている被災者の方々が多くいる。生き残った者は前に進むしかないと解っていながらも、わがいのちに迷い、持て余す人間である。生きていく工夫というものを私たちは学ばなければならない。その道行きこそが人生というものなのだろう。

諸行無常の歩みの中で、変わるものと変わらないものがある。自己が自己に落ち着くということも、ほとけのいのちのままに生きるということを言っている。危ういこの世を、確かな歩みで、前を向いて生きて行くために、私はほとけのいのちを生き切る以外に道はない。現成なる公案、公案なる現成。即身なる成仏。成仏なる即身。信仰とはことの仏のいのちと即なる自己に目覚め生き切る様子を言うのではなかろうかと思っている次第。


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「へらへら」

気の触れる音して昼寝より覚める

悔しき世にひとり涼しき木蔭あり

溝浚へ四の五のいふて捗りぬ

ここにきて已むに已まれず水喧嘩

芍薬のいさゝかひらき過ぎかとも

駈け出せば空は絶壁夏野原

都忘れに屈む失意のありにけり

子を探す半狂乱に花ざくろ

十薬を抜けば悪意のにほひして

雛罌粟のへらへら嗤ひ波打ちぬ



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「あさぼらけ」

旅に出るうら哀しさや朝焼す

水鶏啼くさながら死出のあさぼらけ

蕗採りし指を洗ふやさゝ流れ

三界に打ち捨てられて昼寝覚

杜鵑今もどこかに山月記

くちなはのついて来るなといふ風に

不敵なる男に茅菜流しかな

涯のなき沖に息継ぐ正覚坊

売られゆく旅の途中や雲の峰

無茶をする男が麦茶呑みたがり

見たくもない守宮の腹を見せられて












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