再生への旅

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zoom RSS わが人生、わが闘争、わが俳句、わが遺言、わが空去来

<<   作成日時 : 2015/05/11 19:16   >>

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夏薊恋は山越ゑ谷渡り 玉宗


先日UPした記事に戴いたコメント。

「玉宗様の自己分析、奥方様の眼も、ご友人の眼も間違いではなく、多面的な性格なのでしょう。私の好きな岡本太郎氏は「貴方の職業は何ですか?」の問いに、「人間だ」とお応えだったと著書にありました。  玉宗様は俳人か禅僧か、はたまた何者かと考えますに屈折した処が見えながら、あくまでも仏陀に従う修行者、人間なのだと理解しております」

出来損ないの仏弟子がいるからと言って、それがそのまま仏教の否定にはならないよね。できそこないの俳句があるからと言って、それがそのまま俳句文学の否定にはならんよね。それにしても現実と理想の二足の草鞋を履いて生きているんじゃなかろうか。二足だろうがなんだろうが道をゆく脚力が勝負だね!

伝統俳句にも現代俳句にも染まり切れない、徹底し切れない私の俳句。平成の小林一茶を目論んでいると言ってみたところで、流行遅れの感が否めないな。六千句、無謀だったかなと思い始めている。取り敢えず、注文した五百冊分は営業しなくっちゃ!夫人にどやされる!死に物狂いで売りさばくぞ。ああ、句集のベストセラーなんて夢の又、夢なのかもね。(−−:まだ、できてもいないのに、そんな悪夢に魘されている。

さて、俳句に手を染めて四半世紀になる。この間、俳句を引き摺り、俳句に引き摺られてきたようなものだが、最短定型詩が自己表現の一手段であることを疑ったことはない。勿論、それは私の作ったものが作品としてすぐれているか月並みかということと別問題であるが。ご覧の通りの、殆どは凡百の類想の山である。自己表現と簡単に言ってしまうが、その自己がお粗末であるならば、表現という手段・方便も私の身丈に添ったものであるに相違ない。

俳句は自己を語ることではない。何かを感じることが先決だと思うようになった。日々、息を継いで過ごしてゆくように、俳句という最短定型詩は生まれてくる。息継ぎが浅ければ浅い、深ければ深い感応の世界がそこに表れるだろう。また、過ぎてしまった息が幻であったように、そして、先の息がなければ今がないように、俳句は古く新しく、空しいことがその身上でもあろう。いのちがそうであるように、ときに浅く、ときに深く、ときに新しく、ときにふるく。私のいのちに添った輝きを放つことが俳句の意義であってほしい。

そして、作品に対する自他の評価が表現の洗練を招くように、私は表現することに謙虚であり、精進しなければならない。そして、それはそのまま私が生きることに謙虚であり精進しなければならないことと同じ人生の実相である。表現も人生も、誤魔化しが効かない世界に居てこそ、その醍醐味を味わうことが出来るのだろう。

人様からみて私がどう評価されているか、私の俳句がどう受け取られているか。人の目を考慮しないということが、文芸というある意味の独りよがりの領域には欠かせない条件であることは言うまでもないが、然し、一方に、客観的な目というものも私の中に育てなければ危ういものになることも真実である。人生がそうであるように。目は内にも外にも向けられている。

また、ある種の人達にとって文芸が軟弱な、遊びごと、風流ごとに映っていることを否定はしない。私の中にもそのような故もない僻み、後ろめたさが意識に上ることがある。それは俳諧が本来、そのような世事を棚上げした者たちの賭け事のようなものであったことと無縁ではないだろう。現代は俳句が随分と持て囃され、世の脚光を浴びている観があるが、一方には俳諧やくざ、という言葉もある。飯のタネにもならないものに浮き身を窶している様は、度し難い風流人と揶揄される条件は十分に備えていよう。たかが文芸の真似ごとが自己の最後の砦と化している悲喜劇。俳諧は屁のようなもの、と詠んだのは中原道夫さんだったね。さしずめ、吾輩の屋根裏俳句工房などは屁の臭気が充満しているんじゃなかろうか・・・・。自家中毒・・・か、なにごとも中毒症状と思えば示しがつくのかもしれん。

たかが俳句。そのようなものに恋して身も世もあらぬなどとは口惜しいことではある。自己を買いかぶらないに越したことはないが、されど俳句。恋したものでなければ味わえない遊びの醍醐味というものがあるのも現実である。せいぜい、身を破滅させぬようにしたいものではあるが、全ての句が、というより私の残した句ひと固まり、マッスが私と云う人間そのものであり、腸なのであるという抜き差しならなさもないことはない。私の俳句はそのような塩梅の自己表現であってほしい。そのような意味でわが俳句は半端ながらも、どれもこれもわが遺言ではある。自分のしてきたことが意味も意義もないことであるにしても、市堀玉宗という人生の足跡、その一端、空去来であることは間違いない。



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「大目玉」

瘡蓋を膝にこさへて草矢打つ

草笛や父が他人の顏をして

マナーモードにほとけ生れて来たる日の

蛇の衣ついて来るなといふ風に

母の日や母に喰らひし大目玉

小判草ここを登れば海が見え

あり余る筍飯と愛情と

虹を渡ると言ひしばかりに侮られ

水母いま肩身を狭くして浮かぶ

花あやめとんがり帽子開いては


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「スリット」


母の日の母をアイロンで伸ばす

カーネーション厭になるほど愛されて

夏燕空のスリットすり抜けて

アカシアの花影ゆるゝブラインド

アイリスを母の窓辺に咲かせけり

ネル寝巻して涼しくねまる母なりし

ものを縫ふ母はさびしやアンタレス

ハンカチが他意あるごとく置かれあり

仏壇のメロンを下げてこいといふ

垂乳根の光り輝くバルコニー



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「ぶんなぐる」

愛よりも少し気なる薔薇貰ふ

ぶん殴るやうに揺れたるおほでまり

札幌は風美しきリラの花

馬鈴薯の花や大地の果までも

雨ながら先代萩の風ながら

早苗吹く風見えてゐる昼餉かな

苗を売る男にさほど売る気なく

とんがって背筋伸ばして咲くあやめ

身を捨てし八百比丘尼夏薊

薬売大根の花に降り立ちぬ

眠たくてならぬ卯の花腐しかな

金毘羅さんへ二番蕨を摘みながら

漆黒の眼差し深き鵜なりけり






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